私個人の「裡なる戦後」 | 還暦を過ぎたトリトンのブログ

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団塊世代よりも年下で、
でも新人類より年上で…
昭和30年代生まれの価値観にこだはります

 「戦争を知らない子どもたち」といふ北山修のヒットソングをご存知でせうか。団塊世代以降、昭和30年代生まれくらいの世代を表はす言葉かと存じます。
 昨日は終戦記念日。不肖私もご神前で黙祷を捧げましたが、私の住む伊丹市では正午の合図は無かつたやうです。私の少年時代には、どこに居ても正午に1分間のサイレンが鳴り響くのが聞こえ、街で道行く人も少し立ち止まり、黙祷をする風景を、其処此処に見ることが常でした。選抜高校野球の試合中でも、しばし試合を中断し1分間の黙祷を捧げるのが言はば国民の儀礼であつたかと存じます。

 私が幼稚園から小学生の頃には、たまに街中で傷痍軍人の方を見かける機会がありました。両脚や足脚を失ひ、或るひは腕をなくして三角巾を付けた中高年の方をしばしば目にしたものです。一緒に居る祖母や母が「あの方は名誉の傷痍軍人さんよ」と言葉少なに小声で教へてくれました。つひ現象面に目を奪はれがちな私等子供らも、さすがにさういふ方を見かけた時は身の引き締まる思ひがしたものです。
 現代の若い人々には信じ難いでせうが、大阪梅田地下の雑踏でも、黒山の人だかりの中で、両手両足を失つた人が地面に這ひつくばつて口に筆をくわゑて書画を描き、それを売つて(おそらく)糊口をしのぐ人も居られました。

 国鉄(今のJR)の電車内で日常的によく見かけたのは、包帯や三角巾で腕を吊るし、松葉杖を持つた二人組の傷痍らしき人が、軍装を身に纏ひ、一人はアコーディオンで戦時歌謡を奏し、もう一人が「私どもは先の戦争で云々」と口上を述べ、二人で空き箱を持つて客席を回るといふ風景でした。
 誠に失礼ながら、これには「本当かいな?」といふ感想を持ちました。と言ひますのは、或る日たまたま見てをりますと、これとは別のお二人、大阪駅あたりで乗車して下り電車で私どもの立花駅まで、上記の行動をとられるのでありますが、その後が問題です。立花駅で反対側すわなち上り大阪方面の車線に乗車されるのを私は目撃したからです。
 恐らく1枚の切符を購入し、車内の改札が少ない昼間の時間帯をこうしてパフォーマンスして生活費に充ててゐるのでは…と疑はれるのでした。
 この頃には乗客の方々もおそらくその怪しさに気付いてゐたのでせう。隣席で行商の荷物を担いでゐたおじさんが「あいつらニセもんや」と、小さな声で私の耳許でささやいておりました。言はれてみれば、自称傷痍軍人のお二人とも体つきも頑健さうで、声も大きく、成る程といふ印象を持ちました。名誉の軍人さんにしては、やることがみみつちいと思ひましたが、何せ大人の世界のことです。見てはいけないものを見たと、子供心の奥底にしまつて見ぬふりをしたことを覚へてをります。

 小学生時代における、至つて個人的な「裡なる戦後」ではあります。

 十数年前(2002年)、小泉首相が訪朝し「日本人拉致問題」が一気に日本人の怒りを沸騰させたあと、全国各県に「被拉致日本人を救う会」が発足しました。この頃、街頭で拉致問題解決を訴へたところ1日で20万、30万円といふ義捐金が集まつた時期があります。これを見た詐欺師集団が、やはり同じやうな街宣活動を行ひカンパを詐取する事例が報道されました。私はこの時、50年も前に封印したニセ傷痍軍人のことを思ひ出しました。
 
 いつの時代でもズルい者は居るものです。終戦記念日の頃は、当時の様々な悲劇や美談、また扇情的な反日歴史観をあおる報道、イベントが目白押しです。皆様、どうか曇りの無い目でご判断頂き、この平和のまま戦後100年を迎へたいものですね。