現地時間7月1日に発生したバングラデシュ・ダッカにおける襲撃事件によって亡くなられた、7人の日本人犠牲者のご冥福を心から祈ります。また負傷された方の一日も早いご快癒を併せて祈りたく存じます。合掌
犠牲者の皆様は、いま急速に発展が進むバングラデシュの交通事情を改善すべく、インフラ事業に関はる準備業務に就いてをられたさうで、JICA(国際協力機構)のメンバーとして発展途上国に貢献された方も居られたと聞いてをります。途上国の発展と国際社会の平和といふ尊い事業に身を挺してをられる、また此れからその道に進まむとされる方々には大きな衝撃でありませう。どうか関係各位による安全情報普及の徹底をお願ひすると共に、若い方々に於かれましては意気沮喪なされませぬやう熟慮と奮起を祈念申し上げます。
さて唐突に思はれるでせうが、我が国の明治・大正・昭和(第二次大戦前)にも、亜細亜人の為の亜細亜を築かむと支那大陸へ雄飛して行つた日本人は大変多いのです。欧羅波、露西亜など列強の東洋侵略を憂ひ、現地(支那〈満州・蒙古〉・韓半島)で耕作や養鶏等に従事し、或ひはその技術を拡め、彼の地に骨を埋めた人々の信念は、現代で言へば今回バングラデシュの犠牲者の方々のご意志と一本の線で通ずるものがあるのではないでせうか。
此度方々と比較すると活動が派手ではありましたが、檀一雄氏の小説「夕日と拳銃」のモデルとして知られる伊達順之助氏は有名であります。戦国武将伊達政宗の子孫にして、仙台藩知事伊達宗敦を父に持ち、満蒙独立運動や山東自治聯軍に参加した大陸浪人・馬賊であります。奉天派(張作霖が代表)の張宗昌と義兄弟となり「張宗援」と名乗つて現地人(亜細亜人)として活躍します。最期は日本人戦犯として銃殺刑となるのですが、烈士のご子息の伊達宗義先生は拓殖大学教授として余りにも著名であられます。
JICAと特別関はりの深い、くだんの拓殖大学で今も歌ひ継がれる「浪歌」のうち「馬賊の歌」には、その時代の若者の心意気がよく表はされてゐるので、さはりの部分を紹介させて頂きませう。
俺もゆくから 君もゆけ
狭い日本にゃ 住み飽いた
海の向かうにゃ 支那がある
支那にゃ 四億の民が待つ
追記:本ブログと兄弟関係に在る「甲南大學應援團OB会」http://profile.ameba.jp/konan-ouendan-ob/ のブックマークの部分に、拓殖大学応援団OB「紅会」様の公式ホームページがございますので、「浪歌」の数々に関しましてはそちらを開いてご高覧頂けますれば幸甚です。