【中澤耕一の過去・・・その3  短編】 | 起業から、経営者へ、そして・・・

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丁度、ゴールデンウェークが3週間前の頃であった・・・
耕一は、中本課長の話は無視できないと考え、クライアントであるその会社の中途面接を受けることにした。

本音は、かなり気が重かったが、確実に採用になることも無いだろうとも考えた。元々、日本企業の枠や会社文化の水が合わなくて、米国を目指し、外資系企業を望み、仕事をしてきたのである。今更、日本企業の文化に合わせることも出来ないが、逆に受け入れられないであろうと考えたのであった。


ところが、以外にもあっさり内定の連絡が来た・・・・


耕一は、困惑した。


一方、村井氏から紹介された渋木からもプロポーザルが着ていたのであった。具体的な内容は別として、ゴールデンウィークの谷間に、米国のCBの役員との面談をして欲しいとの話であった。

耕一は、それぞれに1週間ずつ、時間を貰うように断りを入れた。

中本課長には『ゴールデンウィーク明けに、正式にお返事を兼ねて挨拶に伺います。』と追いかけ出、連絡した。

渋木には『正直、日本企業か?外資系企業か?不透明に感じます。また、年俸の金額が何と比べて高いと判断されるか?競合から人材を引くとは、それ相応の待遇とリスクが伴います。』と答えた。



1998年5月1日、耕一はCB社の上級副社長であるJeffと面会した。Jeffは、身長190cmオーバー、体重100kgほどもあろうかという大男であった。満面の笑みを浮かべ『コンニチハ!』と握手を求めてきた。


CB社としての日本市場での戦略は、既に業界第一位の耕一の会社のビジネスの何割かを奪取すべく、日本企業とのビジネスを成功させたいとの話であった。
この業界においては、R社・C社・X社のトップ3とそれを追う、OK社・SE社・SH社・KM社らが、激戦となっている市場であった。しかし、これは、世界市場における日本製品のブランド力や商品力からすると、大変な要となるビジネスであり、日本でOEM契約するということは、世界市場に販売することと同じ意味を持っていた。よって、なんとしても、どこか1社と取引をする事が重要かつ急務であった。

更に、CB社はSB社にその権利を売ったSydoney_Adderenというラスベガスのほてる王がスポンサーにいると説明された。この売った権利というのは、“Cebit”という、米国で最大級のIT業界の展示会の権利であった。

Jeffは、CB社は本気で耕一の在籍している会社と一騎打ちを仕掛けると断言した。

耕一は、3通りの思考回路が回っていた。

1つは、CB社の描くビジネスをやってみたい・・・・2つ目は、メインクライアントであった日本企業に、改めてサラリーマンとして再スタートするか・・・・3つ目は、全く新しい業界を目指すか?・・・・

ただ、一つ今の耕一自身の推進力は、仕事に対する自尊心であった。純粋に、突き進みたい目標があった。それは、かのクライアントを日本市場でNo.1に押し上げたい気持ちであった。
しかし、生真面目に真っ直ぐ仕事を進めた結果、どうなったか?今の自分は?
上司である井田に対する、憎悪は簡単に消えるものではない。またそれは、個人レベルではなく、ブランドや企業に対して、感じたもであれば簡単に消えるものでもなかった。


耕一は、どうすべきか?(今にして思えば、この段階での検討がこの後の耕一の人生を大きく左右するのであった。)


誰かに相談したくても、その相手さえいない・・・先輩や上司も・・・自身が孤独であることを痛感した。

そして、その決断を迫られる場面が、刻一刻と近づくのであった・・・(続)