【蚊の大軍との戦い】


昨日の夜、コータの「点滴事件」によってダブルからシングルに変更されたため、私は今回の旅で初めてシングルの部屋で安眠ができると思って期待していた。蚊の対策として深々とフードをかぶり、足にはフトンをのせ、袖を伸ばして露出部分を最小限にしてから、電気を消して横になった。

しかし、「甘かった」と言うべきか、何匹いるとも知れない蚊の大軍は、容赦なくわずかに露出している顔や手を攻撃し始めた。フードをかぶっていても、あの「プーン」という甲高い羽音が耳をつんざく。さらに「唇」という想定外のところを刺され、にわかに膨れ上がってきたため、1時間ほどでギブアップし電気をつけた。


起きると首の辺りが汗でびっしょりだった。これでは旅の疲れが取れるはずがない。

10匹くらい殺しただろうか。しかし様々な動きで攻め込んでくる蚊の数は一向に減らない。部屋の隙間にシーツや枕、ティッシュなどを詰めて入ってこれなくする。
「ん!?」ふと気づくと窓が割れている・・・。

しかも奴らの動きからしてここが主な侵入経路となっていることが推測できた。しかし、割れた窓を塞ぐことができるのは大きなテープくらいで、当然この部屋にそんなものはなく、他にこの要所を守れそうな防具は見つからなかった。
しばし、蚊を殺しつつ考えていると、名案がひらめいた。私は塞ぎきれなかった窓やドアの隙間に、アーグラーで買った蚊よけのクリームを塗りたくってみた。これでどうだろう。

部屋に残っている数匹の蚊を殺し、私は「シッダールタ」の続きを読み始めた。しかし、またしばらくするとどこからともなく蚊が忍び寄ってくる。私は発狂しそうになりながら、もうあきらめてずっと起きていることにした。時々蚊を殺しながら読書すること2時間ほど。「シッダールタ」を読み終えた私はすることがなくなってしまった。


寝るのは苦しいが、寝ないと次の日が苦しい・・・。私は最終手段を使った。全身をくまなく覆って、蚊の尖った口が皮膚にたどり着かなくするのだ。フードをきつくした後、タオルを顔面にかけ、手をフトンの中にしまい、CDを聞いて気を紛らせながら眠ることにした。

タオルの上にたくさんの蚊が飛び回るのを感じながら、次第に夢の中に入っていった。



【バナーラスに戻る】


朝、ノックの音がした。寝起きは最悪である。ノックしたのはラナさんだった。
「10:30にお寺(マハーボディ寺院)の方に行こう」とのこと。
その時間に来ればいいのに!昨晩の蚊との戦いに疲れて不機嫌だったので軽くあしらって2度寝。


10:45くらいにラナのバイクに乗ってお土産を買いに行った。

安物の腕輪1つと質の良い数珠2つを例のお土産屋の店で買い、途中ラナといろいろ話してからいったんゲストハウスに戻り、ブッダガヤをあとにした。


ラナさんは5月に日本に来ると言っていたが私は信じておらず、それについていろいろ質問攻めにしてみると、少しは信憑性がありそうだった。メールアドレスなども交換したので、5月が楽しみだ。


ラナさんと ラナさんと管理人


さて、駅についてから列車が着くまで1時間ほど余裕があったが、今回は3回目にして初めて定刻に到着した。コルカタ(カルカッタ)発だからまだ遅れはないみたいだ。座席と次の目的地が違うため、ここでコータともお別れだ。メールアドレスを交換し合い、「戦友」と別れた。
帰国後の連絡が楽しみだ。


カステラやみかんなどの食料を買い込み、タクシと私は列車に乗った。今回は実にスムーズに座席も見つかり、外が良く見える窓際に腰を下ろした。それから約4時間の列車の旅は、今までになくゆったりとくつろげた。


途中、上のシートにインド人が勝手に上がって寝だしたことが2回もあり、2回とも「This is our seat!」と抗議して引きずり下ろした。そもそも「日本人的な」感覚から言えば、他人の席を借りようという場合、その許可を求めて一言声をかけるのが「常識」である。いや、日本だけでなく全世界ほとんど全ての国でそれが言えるのではないだろうか。それが事実上「ワールドスタンダード」であると言える。
しかし、そんな世界の常識も、この国では通用しないようだ。その「一言」さえあれば、もちろん上の席は今使っていないのだから、寝てもらっても全然かまわない。しかし、人の席に何の配慮もなく堂々と居座ろうとするインド人には正直ハラが立った。こちらが逆の立場の時に、「一言」声をかけてお願いしても、ケチ臭くて全く応じてくれないくせに、自分の権利は拡大解釈しているようだ。こいつらの思うままにやらせておくわけにはいかない。
したがって、2回とも怒鳴りつけて出ていってもらったのだ。インドにいると心がすさむのかもしれないが、やはりここは負けるわけにはいかないのだ。


話は変わるが、「物乞い」についても同じことが言える。

インドではどこに行っても私たち観光客にの周りには、どこからともなく子供や老人や身障者の「物乞い」が付き纏ってくるのだが、たまたま残った食料を物乞いの子供や子持ちの母などに渡すと、「ありがとう」の言葉も、嬉しそうな笑顔も何もなく、ただ当然のことのような無表情な顔でその場を立ち去ってゆく。

それではこちらもお金や食料をあげる気もしないし、あげてもこちらは気分が悪くなるだけだ。「国民性」という言葉で片づけて良いものだろうか。とにかく私たちの常識は彼らの非常識であり、彼らの常識は私たちの非常識なのである。


さて、列車からの眺めはなかなか良かった。


列車からの眺め 列車からの眺め


また、列車からおそらくスラム街と思われる町の風景が見えたので、写真を撮っておいた。


列車から見えたスラム街(1) 列車から見えたスラム街の風景(1)

列車から見えたスラム街(2) 列車から見えたスラム街の風景(2)

今日はインドに来てから初めての曇りであり、途中少し雨も降っていた。インドで一度は雨の経験もしてみたいと思っていたので良かった。しかし、雨季ともなれば毎日雨なのであろう。

そんな時期も「見てみたい」とは思うが、「来てみたい」とは正直思わない。

こんな道路状況で毎日雨=「○×△■※▲???」である。それこそ想像できない・・・。


私は2時間ほど買い込んだものを食べたり、タクシと話たりしながら窓の外を眺めていたが、だんだん眠くなってきたので上にあがり、横になった。

列車のSleeperはなぜかとても寝やすい。これなら明日のバナーラス⇒ムンバイもそんなにきつくなさそうである。


気がつくとムガルサライ駅にちょうど到着するところだった。私たちは外に出てオートリキシャーを拾い、メイン・ガート(ダシャーシュワメード・ガート)の方まで向かった。

今日のリキシャーワーラーは今までで一番安全運転だった。しかし、100Rsに無理して値切ったせいか、降ろされたところからメインガートへはかなりの道のりがあり、ずいぶん長い距離を歩いてようやく久美子ハウスへ帰ってきた。


帰ってからはいつも通り夕飯をいただき、シャワーを浴びて日記を書く。夕食後に1階に下りて、明日までの4日分の宿代と飯代を久美子さんに払った。

(宿代40Rs+朝飯代25Rs+夕飯代25Rs)×4日分で、360Rs(約864円)である!安すぎる・・・。

毎日エキサイティングな旅が続く。日記をつけるのも大変である。
無数に湧いてくる蚊と戦いながら、今日の日を綴っている。
今日の主役はバイク!できればインドでもバイクを自分で運転したいと思っていたので、旅での念願が果たせて嬉しい。



【「2nd」の列車】


昨晩は本当に寝苦しい夜だった。日本でいきなりこんな状況に置かれたら、もしかしたら気が狂ってしまうかも知れない。

羽虫の大群、蚊、タバコの煙、煌々と光る裸電球の灯り、アリ、扇風機の強風、極限的な汚さのマット・・・。しかし旅の疲れはそんな過酷な状況下でも、人間を睡眠へと追いやる。


寝たり起きたりを繰り返して、4:00になった。私たち3人は、5:30のブッダガヤ行きの列車に乗るため、4:30頃には部屋をあとにしていた。

早朝とは言え、まだあたりは真っ暗だ。一度メインストリートへ出るいつもの狭い路地に入ったが、真っ暗闇の中にどんな病気を持っているか分からない犬や牛が寝そべっているため、あまりの危険さにガートの明るい道を選ぶことにした。しかし、こっちの道が安全というわけではなく、やはり犬に襲われそうになったりと恐怖体験を乗り越えて、やっとの思いでリキシャーを拾った。


しかし恐怖はここからも続いた。このリキシャーワーラーがスピード狂で、早朝でクルマが少ないからといって、ものすごいスピードででこぼこ道を走り続けていく。途中、道路に横たわっているまだきれいな子犬の死骸を、よけ切れずに車輪で踏み潰していった、と書けば少しは伝わるだろうか。
あのスピードで何かに衝突したら、間違いなく軽いケガでは済まされない・・・。インド人の頭の中は、まだまだ謎だらけである。


なんとか無事に駅に着いた。前日の昼間に写真を撮った駅前の広間は、昼のときと一転して、列車を待つ人で埋め尽くされていた。なんとも異様な光景だ。しかし、インドではこれが当たり前。私たちは臆することなくホームへと進んだ。

どうやらまた40分ほど到着が遅れているようだった。しかたないので、待ちぼうけ。結局2時間待って、空も完全に明るくなった頃、ブッダガヤ行きの列車は到着した。


「やれやれ」と思いきや、ここからが苦難の本番である。
インドの列車で一番安い、2ndの車両に入ったはいいが、席が分からない。列車が動き始めてからも3人で車両内で行ったり来たりを繰り返すが、一向に分からない。最終的に分かったのは、私たちのチケットは「WL(ウェイティング・リスト)」で、「コンファーム」が必要だということだった。とりあえず黒い制服の人に言え、と教えられたので、待っていたがこれも一向に現れない。3、40分そんなことを荷物を持ちながら繰り返し、結局トイレなどがある車両の汚い連結部分にスペースを無理やり作って居座ることにした。

本を読んだり、CDを聴いたり、寝たりしていたが、その間ずっと足元を人が行ったり来たりする。足を踏まれたり、膝を蹴られたり、洗面所の水を垂らされたり・・・と、良いことが全くなかった。
他の乗客と同じだけお金を払っているのにこの仕打ち・・・。しかもチケット窓口のおっさんは「WL」のことなど、何も教えてくれなかった。

そんなこんなで、さらに疲労とストレスが溜まり、テンションは最低まで落ちた。本当にこのままでいるとインドがマジで嫌いになってしまいそうだ。


列車からの風景1 列車からの風景(1)

列車からの風景2 列車からの風景(2)


【ブッダガヤでバイクに乗る】


悲惨な「2nd」の旅、約4時間がようやく終わり、再びオートリクシャーを捕まえて、ブッダガヤへと急いだ。皆、疲労困憊していたので、降りてすぐ近くのゲストハウスへ速攻チェックイン。

宿のおっさんに連れられて、「サクラレストラン」というところで昼食をとった。これがまたひどいものだったが、もはや想像にお任せするとしよう。


食事中よほど暇なのか、案内してくれた宿のおっさんがずっとテーブルにいて、必要ないのに話しかけてくる。「おっさん」に見えたのだが、話を聞くとまだ29歳だとのこと。私はその時本当に機嫌が悪かったので、日本語で暴言を吐きまくっていた。その途中、おっさんがいきなり「バイクを貸してやる」と言ってきたので、「ノーマネー」ということを確認してから、快くお願いした。


まさかこんな形で、「できれば・・・」と思っていた「インドでバイクに乗ること」が実現するとは思ってもみなかった。もちろんおじさんの意向は明らかだった。「走った分だけ」と言っていたが、おそらく「走った分以上」にガソリンを入れてもらうことを狙って、気前の良いふりをして貸してくれたのだった。しかし、それを考慮しても、他よりはかなり安く乗り回れそうだったので、私はOKした。

バイクはやはり最高だった。しかもインドの道路で!!(これの意味するところは、実際にインドに来た人でなければ決して分からない)



バイクに乗って バイクに乗って


水のない川 水のない川(乾季のネーランジャラー川)


慶応4年生のタクシと2人乗りして、レストランからまず「スジャータ村」を目指した。スジャータとは、仏陀が悟りを啓く直前に、衰弱した仏陀に乳がゆを供養し、命を救ったという娘のことだ。そのスジャータが住んでいたと言われている村がある。

しばらく景色の良い道を走り、バイクを止めて写真を撮っていると、ちょっと年下くらいの男の子たちがものめずらしそうに集まってきた。日本人がバイクを運転しているのがよほど奇妙に映ったのであろう。無理もない。こんなところで敢えてバイクに乗ろうなどという日本人はめったにいないだろう。
いろいろ話を聞いてみると、どうやらスジャータ村は反対方向だったようで、バイクに3人乗りしていた同い年くらいの子に現地まで案内してもらった。


道を教えてくれた若者 インドの若者たちと


スジャータ村 スジャータ村(1)


スジャータ村2 スジャータ村(2)


スジャータ村(3) スジャータ村(3)


なかなか良いガイドをしてくれた、と思ったが、例のごとく「落とし穴」が待っていた。そこにある「日本語学校」に寄付しろというわけだ。
仕方ないので、「ガイド料」として10Rsおいていったが、そこに置いてあるノートを見ると他の日本人は50Rsとか100Rsとかを「寄付」しており、ここもやはり「インドだった」と思った。10Rsに不満そうな彼らに別れを告げ、今度はこの日のメインイベントであるのマハーボディ寺院に行った。


そこには宿で一度会ったお土産屋のおじさんがいて、ずいぶんとまた丁寧に中をガイドしてくれた。

仏陀が悟りを開いたという菩提樹の木の下で、しばらく物思いに耽ったりした後、一通り寺院を見終わったら外に出た。

次の「落とし穴」は当然高いお土産と数珠を買わせようということだ。もちろん予想の範囲内であったので、軽くあしらってゲストハウスに帰った。


仏塔 マハーボディ寺院

仏陀が悟りを啓いたという菩提樹の木 仏陀が悟りを啓いたと言われる菩提樹の木

【点滴事件】


帰るとゲストハウスではまた予想外の事態が待っていた。一緒にダブルの部屋を借りていたコータがベッドに横になり、点滴を打っているではないか!!昼飯の時に、「気分が悪い」と言っていたが、まさかこんなにひどいとは。
またもう一人、ここに数日泊まる予定のフリーターの友達も体調がひどく悪いようで、今日はずっと休むことにすると言って部屋に入ってしまった。一緒にスジャータ村に行ってきたタクシも少し疲れたと言って部屋にこもってしまったので、元気なのは私だけになった。


私は部屋で一服した後、またバイクに跨り今度は「日本寺」に向かった。

仏教の「聖地」の一つであるここブッダガヤでは「中国寺」や「ミャンマー寺」など、各国の仏寺院が建てた寺があり、日本寺はそのうちの一つだ。
日本寺では何人かの人(日本人がほとんど)が座禅をしていた。


日本寺 日本寺

美しい日本風の寺。


日本寺の風景 日本寺の風景
座禅をしている日本人たち。


日本寺を囲う柵 日本寺を囲う柵

「延暦寺」など、日本全国のお寺の名前が刻まれている。


その後、スジャータ村に行く途中、最初に間違えて行った道をずーっと先まで走って行き、ビューティフルな夕日の写真を一人で撮りまくっていた。途中、スラムの子供たちとカメラに収まった。
インド人はいつも写真を撮りたがり、また撮られたがるが、カメラを渡すと必ずピンぼけの写真を残して、陽気に去ってゆく。


美しい夕日 美しい夕焼け


インドの子供たち インドの子供たち

自転車のタイヤのようなもので遊んでいた。


インドの子供たちと 子供たちと一緒に
インド人の男性に撮ってもらったが、奇跡的にピントが合っていた。



暗くなった頃にゲストハウスに帰ると、今度は宿のおっさんが「夜ビールを飲もう」と持ちかけてきた。どうやら次の狙いは自分の晩酌を私に支払わせようということらしい。

しかし、私としてもインドのビールは一度飲んでみたかったので、おっさんと19:30に一杯やる約束をした。


シャワーを浴びて部屋で待っていたが、ノックの音がしたのは20:30頃だった。用事が長引いたのだそうだが、気にせず近くのレストランに夕食へ。めずらしく美味しいFriedRiceを食し、満足。

ゲストハウスに戻って、インドでメジャーな「Kingfisher」という不味いビール(もともと私はビールを余り好きでない)を2人で一ビンあかし、結局一本分の80Rsを私が払って部屋に戻ってきた。


インド人はどいつもこいつも全く呆れるやつばかりだ。しかし、このおっさんはまだ話が分かるから良い方で、ようやく「半分くらい」信じられるインド人に出会えて少し嬉しかった。

おっさんの名前は「ラナ」と言う。まだ29歳で、10人兄弟の長男。大学(?)を12年前に卒業して、すぐ今のゲストハウスを建てたという。日本語もかなりうまい。ウソかホントか、今年の5月に日本に遊びに行くと言っている。もちろんウソであろうが。


部屋に戻ると、隣で物音がしたので行ってみると、点滴を打たれていたコータが一応復活していた。

コータに聞くと、医療費として100USドルも取られたらしい。本人は納得しているが、どれくらいが奴らのポケットに入っているか、気になって仕方ない。


さて、今午前0時を回った。気がつくと日記を書くのに約3時間費やしていた。明日は午前中ゆっくりして、また「2nd」の列車に乗って、バナーラスに戻る予定だ。

インド入りして、早一週間。ようやくインドにも慣れてきた。残り2週間はあっという間だろう。


今日は朝日が昇る頃に目が覚めず、8:30の朝食前まで寝ていた。

朝食はメニューも含めて昨日と同じ。


しばらくゆっくりして、その場にいた2人(キヨトとコータ)と銀行へ両替しに、また郵便局を探したり、買い物するために出かけた。

いつもと違う道からメインストリートへ出ようとするもかなり苦戦。なんとか通りに出ても、地図が全く役に立たず、同じところをしばらくウロウロしたあげく、たまたま見つけた銀行でコータは両替をすました。またキヨトはその間にカバンを買った。日本から持ってきていたカバンに荷物が入りきらなくなったのだ。

さて、郵便局は・・・?

だいぶ探し回ったが、結局分からない。時間がなくなってきたので、いったん久美子ハウスに戻った。

昨日一緒にチケットを買いに行った4人が集まったところで、お金の清算。こんな面倒なことになるのもインドという国の為せる技だ。



【サールナートへ】


清算が終わりサイフがスッキリとしたところで、シャワーを浴び、その場にいる8人の大人数で、仏陀が初めて説法をしたと言われるサールナートへ、リキシャー2台で向かった。往復で1人60Rsだ。安い!

サールナートまでの道は、これまたひどいものだった。お尻が何度も宙に舞った。しかし、サールナートに近づくにつれ、街の喧騒から離れた静けさの漂う、インドにしては綺麗なところに入っていった。

リキシャーのおじさんたちにここで待っていてもらい、とりあえずでっかいストゥーパの見えるディア公園へ。そこで見たのは仏僧の僧院跡や、アショカ王の建てた円柱の遺跡、また6世紀に建てられたというストゥーパとか、鹿とかリスとか、袈裟を着た仏僧とか・・・。


ディア公園 ディア公園


アショカ王の石柱 アショカ王の石柱

ストゥーパ ストゥーパ


公園の中はとても綺麗で居心地がよくて、その場でみんなゴロゴロし始めた。私は一緒にベンチに座っていたフリーターの人といろいろ会話していた。彼はすでに1ヶ月旅をしており、これからさらに2ヶ月ほど旅を続けるそうだ。

30分くらい経ったところでそろそろ移動しようということになり、次は隣にある考古学博物館へ向かう。

途中で食べたマンゴーアイスは10Rsにしては美味しかった。

博物館でも入場料が必要だった。それにしても公園の入場料が100Rsなのに、博物館はたったの2Rs・・・。この50倍の格差は何なんですか??いやいや、そんなところが、インドの「インド」たるゆえんなのかもしれない。

博物館の中にはカメラが持ち込めず、めずらしく監視カメラまでついているという厳重さ。しかもクーラーがきいていて涼しい。

この博物館には多くの貴重な仏像などの遺跡が展示されており、入り口のど真ん中に、インドの国のシンボルである4匹のライオンの像が鎮座している。かなり見ごたえのあるものだった。写真を撮れないのが残念!



リス リス

シカ シカ


こうして私たちはサールナートを十分堪能し、リキシャーに乗ってまた騒がしいバナーラスのメインストリートへ帰ってきた。帰りはリキシャーワーラー(運転手)の隣に座っていたので、しばらく運転手を観察していると運転の仕方が分かってきた。左ハンドルを回すとギアチェンジをする。足でブレーキを踏むのはバイクやクルマと同じ。一度運転してみたいと思った。

リクシャーを降りて、ガート沿いに久美子ハウスへ歩いていると、12歳くらいだろうか、ポストカード売りの少年が近寄ってくる。何度断ってもしつこくついてまわり、値段交渉してくる。

結局最初は60Rsと言っていた12枚綴りのポストカードを、他のカード2枚プラスして、30Rsで決着。あと5Rsは値切りたかったが、ちょうどいいタイミングで売り込んできてくれたし、よしとしよう。



【ネットカフェ】


3階に戻って、さっそく手紙を書く。なかなかうまく仕上がったが、1階のおじさん(久美子さんのハズバンド)に聞くと、10:30~16:00の間に近くにある郵便局に持っていかないといけないということと、切手にスタンプを押されるのをちゃんと確認しないと切手を剥がされて手紙も捨てられてしまうよ、と教えてくれた。

まったくなんという国だ・・・。


なので、とりあえず手紙は明日出すことにして、インドに来てずっとほったらかしにしていたメールをチェックしに、近くのネットカフェに向かった。バックパッカー街にはこういうものが充実していて嬉しい。

PCは、操作に問題はなかったが、やはり「インド的に」使い古されており、画面がゆらゆら揺れていて、キーボードが潰れかかっていた。30分ほどメールチェックし、返信を2つ書いた。ニュースも見たかったが時間はなく、トリノオリンピックがいつの間にか閉会式を迎えており、日本は荒川静香の金メダル一つのみだった、ということしか分からなかった。


帰るとジャストタイミングで夕食だ。もりもり食べた。が、3日続いて全く同じメシしか出てこない・・・。本当にブタ小屋とあまり変わらない「ハウス」である。それでも連日次々と人、いや日本人が集まってくる。不思議な魅力をたたえた日本人バックパッカーの「聖地」である。


久美子ハウス外観 久美子ハウス外観


久美子ハウスの様子(3階) 久美子ハウス3階

久美子ハウスの様子(屋上) 久美子ハウス屋上(シタールを弾いている)


夕食後は持ってきていた文庫本、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』を読み、明日の出発の準備をし、日記を書き、そろそろ寝るところだ。


シッダールタ (新潮文庫)/ヘッセ
¥380
Amazon.co.jp