あの日、あの時、あのタイミングで孔明先生に出会っていなければ
今日、生きていなかった可能性爆大な玄子(げんし)の奇縁物語。
どんなに自分の中で生き抜くことを決意しても
周りの環境って変わらないもの。
それでも、幸いだったのは、、、
この時から孔明先生が人生の師だったことでした。
「豚が豚の世話をしちゃ、おかしいだろ」
これは、二者面談で将来の夢を聞かれ、
小さい頃から描いていた想いを言語化して
「獣医になること」だと正直に答えた結果、
笑いながら担任教師に言われた言葉である。
クラスメートにイジメられているのに、
無表情、無感情を貫くことで
命と自分自身を保っていたからか、
担任教師も私に対して、何を言ってもいい、
許されるとでも思っていたのだろうか?
思っていたのだろう。
夢を実現できるか否かは別問題として、
それまで大事に抱えていた想いを
ぶち壊しておきながら、
数日後の通知表には
「獣医を目指すのなら、
人間という動物をもっと好きになりましょう」
と堂々と書いてきたくらいだ。
相手の気持ちや想いを一切考えず、夢を殺し、
心を壊す言葉を簡単に吐くのが人間という動物だよ、
と教えてくれた張本人がよくぞ書けたものである。
あれくらいの言葉で傷ついたり、諦める程度の夢だったら所詮、
その程度でしかないと言われるかも知れないが、
相手が聖職者と言われる立場の大人で、
絶対的な存在だったら、
真に受けてしまう十三歳という年齢。
夢を批判されたい、潰されたいと思いながら、
わざわざ目を輝かせて夢を語る人は世界中、
どこにもいない。
人類史上いないとさえ思う。
たかが中学一年の二者面談ごときで、
冗談を真に受けてしまっただけかも知れないが、
それ以上に、
たかが十三歳の私と、三十八歳の担任による二者面談ごときで、
見た目や人格まで否定される筋合いはない。
四半世紀も年が離れていれば、相手に何を言われようが、
傷つけられようが関係なく、
年上を敬わなければならないとでも言うのだろうか。
そんな人間を師と呼ばなければならないのだろうか。
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この担任、英語の担当だったこともあり
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い!
今でも英語、大嫌いです。
英語に罪はないけど、心底、大嫌いです。
トラウマを克服して
勉強したいとか、
話せるようになりたいと思ったことは
微塵もありません。
英語が嫌いな分だけ、
中国語に愛を注ぎます
ってことで。
言葉一つで人の人生は破壊されたり、救われたりするので
放つ言葉は大事に、大事に紡いで生きたいでね。