三国志作家の玄子(げんし)です。
三国演義原文のタイトルに沿ってとりあえず三国演義を楽しむ「とりあえず三国演義」
第七回【袁紹磐河戰公孫 孫堅跨江擊劉表】の4
虎牢関の戦いで、功績を挙げられることを恐れた袁術は孫堅殿に兵糧を送らず、結果、孫堅軍大敗。
同じく虎牢関の戦いで伝国の玉璽を得た孫堅殿は帰途、劉表に攻撃されてしまいました。
さて! ここで問題です。孫堅殿としては、袁術と劉表、どちらへの恨みがより深いでしょうか?
ある日、袁術から孫堅殿に手紙が届きます。
孫堅殿へ
拝啓、お元気ですか?
昔日、劉表に襲われたと思いますが、実はあれは袁紹の謀(はかりごと)だったんです。
その袁紹と劉表が今、孫堅殿が治めてる江東の地を狙ってコソコソと動いています。
なので孫堅殿!速やかに荊州の劉表を討っちゃってください!
私は冀州の袁紹を攻めます!
これこそ、一石二鳥!お互いに恨みを晴らせるってもんです。
時は金なり!さぁ!今すぐ荊州の劉表を攻めちゃって!!!
袁術より
実際には、袁紹も劉表も江東を攻める予定はありませんでした。
では、なぜ袁術が孫堅殿に劉表を討つよう持ちかけたのか?といえば、袁術は劉表に「兵糧ちょうだい」って兵糧の無心をしていました。
でも、既読スルーされました。
袁術は逆ギレしました。
でも、自分で戦うのはお金もかかるし、命もかけなきゃいけないし、何かと面倒です。
けど、この恨み晴らさずにはいられんって思いました。
そこで、袁紹と劉表二人に恨みを抱いている孫堅殿を巻き込むことにしました。
っていう、なんとも自己中な理由だったのです。
兵糧を送らなかった食事係はどこの誰だよ?って話ですが、、、
手紙を受け取った孫堅殿は、「出陣じゃあ!!!」思い立ったら吉日タイプでした。
程普さんは「袁術のいうことは信じない方がいい!」となだめますが
「袁術ごとき、誰もあてにはしておらん!」
孫堅殿は戦う切っ掛けさえあれば、いつでもOKだったようです。
「董卓が政権を握っている状態をなんとかしないといけないのに、個人的なちっちゃい恨みに囚われている場合ではございませぬ!」
孫堅殿の弟、孫静さんは(孫堅殿の)子供たちを引き連れて思い直すよう進言しますが
「気持ちは分かるが、この恨みを晴らさずに漢とは言えんわ!」
孫堅殿が熱く語ると
「何が何でも行くなら、一緒に行きます!」
なだめに来たはずの孫堅殿のお子たちの中で一人だけ、祭りに参加する勢いで盛り上げちゃう子がいました。
「ぉお!やはりお前は違う!!」
孫堅殿が喜んで初陣を許可したのは長男の孫策(字は伯符)殿でした。
三国演義では名前だけ紹介されていますが、個人的に好きなので!
陳寿三国志より抜粋!!!孫策殿ってこんな人!!
美姿顏 好笑語 性闊達聽受
美男子で冗談が好き。
性格は
闊達:心が広く物事にこだわらない、明るくコセコセしないさま。
聽受:人付き合いがいい
孫策殿がいなかったら、三国志の呉国はなかったかも。
それくらいの影響力を今後、発揮していきます。
私事ですが留学時、孫策殿のストーカーになってしまい「三国志」に記載されている孫策殿関連の箇所を余すことなくチェックしたことがありました。
そこで私が見た孫策殿は
*孫策、笑って曰く
*孫策、大いに笑って曰く
*孫策、手を叩きながら笑って曰く、、、
乱世なのに、とにかく爽やかで明るい、たくさん笑う人だったのです!
そして、そんな孫策殿の親友が
周瑜(字は公瑾)殿。
この時からすでに二人は大親友でした。
映画「レッドクリフ」から三国志に入ると孫権の忠臣って感じですが、実際には親友の弟を支える周瑜殿なのです。
孫策殿と周瑜殿。
この美男子コンビの爽やかな活躍は後日、ゆっくりじっくりお伝えします♪
こうして、孫堅殿は孫策殿を連れて荊州の劉表を攻めることに!
第七回【袁紹磐河戰公孫 孫堅跨江擊劉表】の劉表を攻撃する理由がわかったところで、本日はここまで!
今日も最後までご覧いただき、ありがとうございました!