【Info News Zero】2019/03/11 朝【ロイター/読売/日経】 | 【一流企業経営マネジメント対策】【high land presidential group atendantia】【トッププロフェッショナル コンサルティングチーム】

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【現代】東日本大震災、11日で8年【ロイター】

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 東日本大震災は11日、発生から8年を迎える。8日現在の警察庁のまとめでは、岩手、宮城、福島の3県を中心に死者は1万5897人、行方不明者は2533人に上る。11日は午後2時46分の発生時刻に合わせて全国各地で追悼行事が行われる。10日も被災地では祈りがささげられた。

 岩手県山田町では震災で犠牲になった消防団員9人の慰霊碑が建立された。宮城県石巻市は被災市町村として最多の災害公営住宅4456戸の整備を終えた。

 福島県では東京電力福島第1原発事故による避難指示の解除が進むが、依然として第1原発が立地する双葉、大熊両町の全域と、5市町村の一部で避難指示が続く。

【国際】エチオピアで旅客機墜落、157人全員死亡か【読売】

 【ヨハネスブルク=木村達矢】エチオピア航空によると、エチオピアの首都アディスアベバからケニアの首都ナイロビへ向かっていた旅客機(ボーイング737型)が10日午前、墜落した。157人の乗員・乗客は全員死亡したとみられる。

 旅客機は午前8時38分にアディスアベバのボレ国際空港を離陸し、6分後に連絡が途絶えたという。墜落場所はアディスアベバから南東に約50キロのオロミア州ビショフツ付近という。

 エチオピア首相官邸は「事故で愛する人を失った家族に深い哀悼の意を表する」との声明を発表した。

【現代】東日本大震災から8年の「肖像」【日経】

2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災は、多くの人たちの生き方にも影響を与えた。8年前に出会った3人を訪ねた。

■向坂夢歩君(15)

東日本大震災の発生から2日後の2011年3月13日、津波被害が甚大な仙台市若林区で向坂夢歩(ゆあ)君(当時7)に出会った。1階が浸水した自宅に荷物をとりに戻る途中だった。辺り一帯は泥だらけ。小さな夢歩君は長靴ではうまく歩けず、祖父の背にしがみついていた。自宅に戻ったのもつかの間、津波警報のサイレンが鳴り響く。とるものもとりあえず、2人は避難所の方へと引き返した。

夢歩君のその後が気になったが、どの避難所にいるのか分からなかった。取材で近くに来るたびに自宅を訪ね、約2カ月後に再会できた。写真撮影のため、祖父の高橋克寿さんに再びおんぶをしてもらうと、はにかんだ表情を見せてくれた。自宅の修復はその年の暮れに終わり、少しずつだが普段の生活を取り戻していった。

小学校を卒業するタイミングで、夢歩君は生まれ育った仙台を離れる決心をする。東京へ単身赴任していた父のもとへ母と一緒に引っ越したのだ。東京でも友達はたくさんできたが、「いつかは地元に帰りたい」との思いも持ち続けている。そしてこの春、都内の高校に進学を決めた。中学校で打ち込んだ部活の陸上を高校でも続けるつもりだ。幼い頃から乗馬が好きで、将来は馬の蹄鉄(ていてつ)を管理する装蹄師になりたいという夢もある。春からの生活を楽しみにしている。

■勝倉たい子さん(68)

宮城県南三陸町の漁港近くに住んでいた勝倉たい子さん(当時61)はこの日、仮設住宅に移り住んでから初めて津波に流された自宅を訪れた。跡地で見つけたのは、奇跡的に割れずに残った数枚の食器と、家庭菜園で生き残ったミョウガとシソとキクだった。たい子さんは、夫の一男さんと一緒にミョウガなどを掘り起こし、食器を持ち帰った(2011年8月12日)。

2日後、たい子さんは「ボランティアの人にもらった」というプランターにミョウガとシソとキクを植え替えた(2011年8月14日)。

震災から8年を控えた2月末、久しぶりにたい子さんを訪ねた。新しく造成された町の防災集団移転地に家を再建し、2年前に移り住んだ。家族は夫、息子夫婦、孫2人の6人。一つ屋根の下で暮らしている。孫の世話をしたり、庭の小さな畑で過ごす時間が幸せだ。「強いて言えば、近所の茶飲み友達と心から和気あいあいとおしゃべりできる場がなくなったのが少し寂しい」と話す。畑で収穫したキュウリ、ジャガイモ、トマトなどは知り合いやご近所に配った。8年前、仮設住宅に持ち帰ったミョウガは根付かずに枯れてしまったが、シソとキクは今も種を継いで育てている。

■阿部俊樹君(18)

巨大地震と大津波が宮城県女川町を襲ってから約1カ月。町中心部はがれきだらけで、行方不明者の捜索が続いていた。人影もまばらな港で当時小学5年生の阿部俊樹君に出会った。父と一緒に祖父母宅を見に来たのだという。家は門と基礎部分を残し跡形もなかった。思い出についてたずねると、家の前の海で魚を釣った話や、夏祭りの打ち上げ花火の大きいことなど女川の魅力を教えてくれた。そして顔を曇らせた。小学1年生から柔道を始めたという俊樹君。体育館の道場は避難所になり、「柔道の監督の家も流されてしまった。早くいつもの景色に戻ってほしい」とうつむいた。

それから8カ月後。避難所は閉鎖され、毎年女川で開催されていた小中学生の柔道大会が無事開かれた。得意の背負い投げで果敢に攻める俊樹君の姿があった。中学校でも柔道を続け、地域の強豪の宮城県石巻工業高校へ進学した。約30人いる柔道部員の中から団体戦で試合に出られるのは5人だけ。軽量級の俊樹君はその当落線上にいた。高校最後のインターハイの県大会団体戦は初戦に出場し引き分け、次戦は団体メンバーから外れた。そしてその試合はわずかなポイント差で石巻工業高は惜敗した。相手校は勝ち進み、優勝した。

再三けがに悩まされ、ときに人間関係でも悩んだ。それでも、掛け替えのない仲間たちに支えられてやってこられた。震災と柔道を通じて、「人との出会いの大切さや、結果より過程が大事なことを学べたと思う」という俊樹君。3月1日に高校の卒業式を迎えた。式の後、部員全員が集まり思い出話やこれからのことを語り合った。進路は進学や就職などさまざまだ。俊樹君は看護師を目指し、4月から3年制の短期大学に通う。柔道とは少し距離を置くことになるが、新たな同志とまた出会うだろう。

【経済】JT子会社 更生手続き…カナダ【読売】

 日本たばこ産業(JT)は9日、カナダの子会社「JTI―マクドナルド」が、会社更生手続きにあたる企業債権者調整法の適用を同国オンタリオ州上位裁判所に申請し、承認されたと発表した。

 JTIは、同国ケベック州の住民らが「たばこの製造と販売で健康被害を受けた」として起こした訴訟の控訴審で約17・7億カナダ・ドル(約1480億円)の損害賠償を命じられたが、支払い能力を超える。資産差し押さえなどで事業継続が難しくなることを避けるため、同法の適用を申請した。

 JTによると、賠償金のうち前払い金として支払う予定だった約1・5億カナダ・ドル(約120億円)について、当面の間、支払う必要がなくなるため、事業継続が可能になるという。

【政治】俳優の辰巳琢郎氏に出馬要請【ロイター】

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 松井一郎大阪府知事(日本維新の会・大阪維新の会代表)と吉村洋文大阪市長が辞職し、4月7日投開票の統一地方選前半戦でそれぞれ市長選、知事選に入れ替わり出馬するダブル選で、自民党が知事選候補として大阪市出身の俳優辰巳琢郎氏(60)に立候補を要請していることが10日、分かった。

 辰巳氏は10日、報道陣の取材に要請があったと認めた上で「そんなに簡単ではない。最終的に家族会議をして今日中に返事をする」と述べ、回答を急ぐ考えを示した。出馬要請については「非常に光栄なこと」とし、「大阪愛は人一倍持っているが、どういう立ち位置で仕事をすべきかを一番に考えたい」と語った。

【現代】「良問」だから…医学部入試、前年度と同じ出題【読売】

 福井大は、昨年9月に実施した医学部医学科の2019年度編入試験1次選考の学力検査で、前年度と同じ問題を出題したミスについて、検証結果をまとめ、再発防止策を発表した。同大学は今後、一般入試も含めた問題作成などに関するガイドライン(指針)を作るとしている。

 この学力検査は、医学部教授6人が作成を担当。前年度分を「良問」として問題の順番や文章を変えず、そのまま出題していた。

 転用の発覚後、同大学は昨年11月に理事ら5人による事案検証委員会を設け、関係者の聞き取り調査などを行った。検証結果では「受験者に著しく公平性に欠ける行為を認識していなかった事実は問題」「前年度と一字一句違わない問題を出題する行為は、入試の重要性からみて不適切な行為」と指摘した。

 再発防止策では、医学科の入試問題作成に関する体制を見直し、第三者がチェックできる仕組みも整えるなどとした。

 教授6人については、同大学は学内規定に基づいて処分したが、「処分内容は公表していない」として明らかにしなかった。

【経済】コラム:米金融政策の教訓、次の一手は「利下げ」か【ロイター】

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[ロンドン 7日 ロイター] - 米連邦準備理事会(FRB)の次の一手は、利上げよりも利下げとなる可能性が大きい。米国の景気拡大が終盤に差し掛かっている点と、過去の似たような局面におけるFRBの対応を踏まえると、こうした結論が導き出される。

FRBの金融政策は、厳格なルールに基づいてではなく、連邦公開市場委員会(FOMC)メンバーの裁量によって決定される。とはいえ、類似する経済データを見れば政策担当者は同じような政策手段を選びがちなので、政策金利はきっちり定義された循環に応じて動く傾向を持つ。

FOMCが一連の利上げの後にリスクバランスを見直しながらいったん立ち止まった場合、通常は次に利下げが実施される。そしてFOMCが利上げを休むのは、景気拡大が成熟段階に達し、債券市場で長短利回りの逆転(逆イールド)が起きる恐れが出てきて、物価は落ち着いた様子を保ち、成長ペースは緩やかという局面であることが多い。

この段階までに主要な景気循環指標、例えばISM製造業指数などはピークを過ぎて下がり始めているのが普通だ。もし景気拡大ペースがさらに減速するか、足踏み状態(ソフトパッチ)になれば、総じてFOMCは成長を持続させるために利下げで対応する。

はっきりしたインフレ圧力がなければ、政策担当者は物価抑制よりも成長維持を優先目標とすることが可能で、利下げを正当化できる。

過去数十年を見ると、FRBがある程度の期間動きを止めた後で利上げを再開したことは滅多にない。

<打ち止めではない>

ウィリアム・ダドリー前ニューヨーク連銀総裁は違った見方をしている。6日にブルームバーグで「次の一手は、時期こそ後ずれするにしても依然として利上げになる。今年の米経済はすう勢より上振れるとみている。第1・四半期は政府機関閉鎖や貿易を巡る不透明感、低調な規模の税還付金などが成長を抑えるので、そうした証拠は出てこないだろう。その後、状況はもった明るくなりそうだ」と論じた。

さらにFRBにとって利上げに「忍耐強くなる」という姿勢は「打ち止め」を意味しないと主張した。確かに政策金利決定の過程については、ダドリー氏ほど直接的な情報を得られるアナリストはほとんどいないという面もある。

ただ1年ないしそれ以上利上げを休んだ後に再開すれば、相当異例なケースになるだろう。

<1998年の利下げ>

現在米経済が置かれている状況は、1997─98年に政策金利がいったん据え置かれ、98年9─11月に計75ベーシスポイント(bp)の利下げが実施された場面と似通っている。

98年にFRBは国内の成長減速と、アジア金融危機に起因する世界経済の弱さが米経済を圧迫する恐れを指摘。当時のグリーンスパン議長は9月のFOMCで、米経済は底堅く推移しているものの、景気の弱まりを示唆する断片的な情報が増加していると説明した上で、その1週間後に利下げを発表し、11月までにさらに2回実施した。

この98年の利下げを受け、米経済はかろうじて景気後退(リセッション)を回避し、ハイテクバブルに沸いた2000年まで拡大を続け、リセッションに突入したのは2001年4月だった。

<正しいのはどちらか>

今は失業率が非常に低水準になっていることや、物価上昇率の低さ、債券市場が逆イールド寸前、世界経済はさえないといった点でも1998年を彷彿させる。

当時の方が世界経済と金融市場の緊迫度は高く、米経済への悪影響の波及具合も明白だ。しかし国際通貨基金(IMF)などは最近、今年は世界的に経済見通しが「脆弱」だと警鐘を鳴らし、金融市場はリセッションの可能性に対する警戒感を強めていることが分かる。

こうした環境であれば、一段の弱気サインが出てくれば、FRBがそれに対応して景気拡大を途切れさせないために利下げするというシナリオは容易に想定できる。

もちろん米経済が一時的なソフトパッチを乗り越え、今年後半には潜在成長率を上回る成長ペースが続き、来年に物価が押し上げられるリスクが生じてFRBに再び利上げを促す事態もあり得る。

米国と中国が貿易協議で合意に達すれば、株式投資家や企業経営者を覆っていた不透明感の重要な原因の1つが取り除かれる。急減速していた欧州とアジアの経済が持ち直すとともに、世界的に貿易はまた加速してもおかしくない。

また原油価格が上昇基調に戻るかもしれない。消費が増え、石油輸出国機構(OPEC)の減産に伴って需給が引き締まるからで、それは世界的な物価上昇圧力をもたらすことになる。

こうした展開になれば、ダドリー氏の正しさが証明される。つまりFRBはまだ利上げを打ち止めにしないだろう。

現在の米景気拡大は既に117カ月に達しており、今後1991─001年に記録した過去最長の120カ月を超える可能性はある。

しかし全体的に見て、多くの投資家はFRBがしばらく政策金利を据え置き、今年終盤か来年に景気の弱くなるのを踏まえて利下げすると考えている。

【経済】コラム:自社株買いとM&A、レバレッジ・ブームの裏側=重見吉徳氏【ロイター】

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[東京 6日] - 昨年2度にわたって現在の金融市場を支える「7つのブーム」についてお伝えした。改めて言えば、それらは、流動性、生産効率化、合併・買収(M&A)、自社株買い、レバレッジ、テクノロジー、上場投資信託(ETF)を巡るブームだ。

6月6日付の前編ではその概観、そして同8日付の後編ではテクノロジー・ブームとETFブームを取り上げた。今回は、自社株買いブームとM&A(合併・買収)ブーム、そしてその裏側で生じているレバレッジ・ブーム、すなわち「債務の持続不可能な拡大」に焦点を当てたい。

著名投資家レイ・ダリオ氏が近著「Big Debt Crises(未邦訳)」の主題としているように、債務の拡大こそが生産性以上の支出を可能にすることで、ブームを生み出す。他方、その反動として債務の返済が進むときは、支出が減ることで、経済活動は少なくとも停滞する。そして、いよいよ債務の返済が困難になるときには、支出の削減(すなわち緊縮)、デフォルトを含む債務の再編、所得の再分配、中央銀行による介入のいずれかが必要になり、経済活動は大幅な収縮を余儀なくされる。

現在はどうかと言えば、米企業部門の債務は、家計や政府部門を含む経済全体の所得である国内総生産(GDP)を上回るペースで増大している。そして、短期金利は引き上げられ、企業のキャッシュフローや利益を含む経済活動はスローダウンを始めている。

ダリオ氏の定義を借りるなら、現在は「トップ」と「不況」の間といったところだろう。今後は、債務の返済費用(デット・サービス)がキャッシュフローや所得を上回り、貸し手の側は新規の与信はおろか、既往の与信のロールオーバーにも及び腰になる。すなわち「取り付け」である。最初は、最も脆弱な企業がデフォルトに陥り、「特殊なケース」と一蹴されるが、これが徐々に与信者を不安にさせていく。

ダリオ氏の債務サイクル理論に上乗せする形で、本稿で筆者が強調したいことは、企業が債務拡大の見合いとして計上する「資産」が、「経済活動が現在の繁栄を続ける」という不合理な想定によって「高値つかみ」されている点である。経済活動が鈍化すれば、そうした「資産」の価値が低下して債務の返済は困難となり、債務返済の過程で経済活動の収縮が増幅される。すなわち、デレバレッジの温床が存在する。

計上される「資産」とは、自社株であり、M&Aの主産物である「のれん」である。米連邦準備理事会(FRB)の統計によれば、米国の企業は、2010年以降、負債を約7兆5000億ドル(約840億円)増加させた一方で、自己株式を約3兆6000億ドル減らし、「特定不能な雑資産」(FRBによれば、その大部分が「のれん」)を約3兆1000億ドル増やしている。

<企業が自社株買いやM&Aに走る訳>

企業は、なぜ自社株買いやM&Aを行うのだろうか。その理由の1つは、マクロ全体で考えてトップライン(売上高)の拡大による利益の増加が困難になる状況下でも、資本家が企業に対し、以前よりも高い自己資本利益率(ROE)を求めるためであろう。

また、自社株買いを行う別の理由は、米証券取引委員会(SEC)のロバート・ジャクソン委員が昨年6月の講演で指摘したように、企業の最高経営責任者(CEO)たちが、権利が確定した自己株式を高値で売り抜けるためである。自社株買いは「自社の株価が割安に放置されている」というシグナリングだと言われるが、CEOは「自社の株式を割安」とアナウンスしたそばから、自社株を手放している。いずれにせよ、CEOを含む資本家の強欲さが、労働者を含む企業という組織を自社株買いやM&Aに走らせている。

まず、自社株買いを考えてみよう。自己資本利益率(ROE)の3分解(ROEは、マージン、回転率、レバレッジの積)を思い出すと、企業が利益そのものの拡大に頼りにくい場合には、レバレッジを高めることでROEの引き上げが可能になる。すなわち、債務の拡大による自社株買いである。

債務拡大による自社株買いの会計処理を考えれば、貸方にある自己株式を借方に落とし、貸方に負債を計上する。この処理は「株式の信用買い」と変わらず、その実態は(金融危機の典型パターンである)「短期調達、長期運用のミスマッチ拡大」とも言える。

自社株買いが生じるタイミングは、景気の拡大が続くことで、資本家の期待、言い換えれば株式のバリュエーションが高まっているときであり、企業は高値で自己株式を買い入れている。反対に、経済活動が鈍化して、企業の債務返済が困難になったり、赤字によって資本が減少したりすると、企業は新株発行や緊縮(支出の削減)によるレバレッジの低下を余儀なくされる。

このタイミングでは、株価は利益の減少を反映して既に下落している一方で、新株発行は1株利益の希薄化懸念からバリュエーションをさらに押し下げる。すなわち、企業は、債務の拡大によって自己株式を高く買い、不況時に安く売り出すことで債務を返済するという、レバレッジを用いて高く買って安く売る「高値つかみ」のメカニズムが内在している。

ここで根本に立ち返ると、好景気において、利益が拡大し、内部留保が増えることでROEが低下することは、全く望ましいことである。もっと言えば、好景気には新株を発行したほうがよい。なぜなら、それらが資本効率の低下によって、株価のオーバーシュートを抑制するためである。

反対に、不景気の際には自社株買いを積極化し、利益の減少によるROEの低下や株価の下落を抑制できる。これが、株価の不要な変動を抑制する仕組みであり、現在実行されている自社株買いのメカニズムとは全く逆の仕組みである。夢物語と思うかもしれないが、投資家が自らの長期の利益について少し考えればできることである。

<整いつつあるデレバレッジの条件>

次に、M&Aを考えよう。自社株買いのケースと同様に、ROEの3分解を考えれば、マージン(利益/売上高)は、簡単な算術で、資本分配率(企業利益/GDP)と同一であることが確かめられる。独占や寡占、あるいは生産の海外移転によって、販売価格を維持しつつ、労働コストを中心とする費用を抑制する。すなわち格差の拡大であり、やがてポピュリズムが生じる。

M&Aの会計処理では、買収される企業の保有資産を時価評価した上で、買収金額との差額を「のれん」(無形固定資産)で計上する。M&Aにおいては、多くの関係者が「濡れ手に粟」の利益を得ようと買収の成功を急ぐためか、買収される企業の株主にかなり高いプレミアムが支払われる。

ここでいったんプレミアムをゼロと仮定すれば、買収金額は、買収される側の保有資産の株価純資産倍率(PBR)倍となる。単純な例を考えると、PBRが2倍なら、保有資産と同額の「のれん」が計上される。そこにプレミアムが乗れば「のれん」はさらに膨らむ。

のれんは、被買収企業がその保有資産のPBR倍をさらに上回る価値を出すことで初めて正当化されるが、実体経済がスローダウンすれば、その価値を発揮することは困難となる。結果、買収を実行した企業は「負債はあるが、資産はない」(無形固定資産である「のれん」が価値を発揮しない)状態に陥る。すなわち、事業が楽観的な想定を下回る分、返済は容易ではなくなるというわけである。

これまでのような好況時のM&Aは、「実体経済が現在のような繁栄を続ける」という前提に基づく、レバレッジを用いた「高値つかみ」である。加えて言えば、レバレッジド・ローンを金融機関だけではなく、投資ファンドなどのノンバンクが組成している状況も、金融危機の典型である。

実体経済の拡大を上回る債務の拡大、そして債務の拡大で購入される資産の高値つかみ、利上げ、経済のスローダウン、シャドーバンキング(影の銀行)の拡大など、デレバレッジの条件は整いつつある。

【経済】早川萬之助氏 一獲万金外れ、名株仲買へ【日経】

早川萬之助ほど職業を転々とする男も珍しい。やっと名古屋株式取引所(名株)の仲買人を開業し腰を落ち着けるのが明治40年で34歳の時だ。

名株の社史によると、前年の活況を背景に増資をして業容拡大をねらっていた。

「明治40年1月17日株主総会を開き、資本金を70万円に増資し、新株式募集の件など決議し、大いに当所の陣容を張って東西に拮抗することにしたのである」(「株式会社名古屋株式取引所史」)

こうした機運をみて、早川は名株の新株を引き受け仲買人に名乗り出た。ところが、株主総会の当日が大天井となり、株式市場はガラに突入する。

「相場は逐日低落し、上半期中ほとんどこの悲況を継続、…8月末諸株の一斉大ガラを演じ9月中旬における炭坑株の暴落をはじめ、10月にはさらに惨憺(さんたん)たる場面を現し、歳末に及んで一層不振に陥り、市場の中心となれる紡績株においては稀有(けう)の大崩落を演ぜり」(同)

早川が前半生の有為転変を語るに当たって「体験談」というより「懺悔(ざんげ)録」だというのは、さもありなんとうなずける。

早川は織田信長の本拠として知られる愛知県清洲村の農家に生まれ、小学校を終えるころ、早川家は伊勢神宮司庁の為替方を三井銀行から引き継ぐことになる。明治20年ころのことだ。このため一家を挙げて宇治山田に移住、萬之助は伊勢皇学館に入学、将来は神官になる準備に入る。かと思うと上京して慶応義塾に学び、明治27年卒業。のちに同校の名物教授となる堀江帰一らと同窓だった。

卒業と同時に故郷に帰り、父親に代わって神宮司庁為替方を拝命する。ところが、当時日清戦争の最中で、経済界の変動は激しく一獲万金の大志を抱き、2、3の事業に手を出し、それなりの利益を占める。が、たちまち失敗、同29年には神宮司庁為替方を辞め、山田銀行に譲渡し、みずからは三重県茶業組合の嘱託となる。神戸の日本製茶輸出会社に入り、約1年間輸出に関する実務に就く。

しかし長続きしない。同31年には新潟県の蔵王石油に転じ、柏崎支店に勤めるが、同石油が外資系の会社に買収されると、即座に退社し小倉製油の柏崎支店の支配人に招かれる。こうして北越で約3年石油事業に従事し、精通するが、店主の小倉と意見が衝突し、同35年支配人のポストを返上し、名古屋に舞い戻る。神職、茶業、石油の業界を経験したのち金融経済界に入る。

そのころ名古屋に手形交換所を設立する機運が高まっていたが、早川は同交換所の幹事となり、名古屋商業会議所書記長の職を兼ねる。同38年には、藤本ビルブローカー(大和証券の前身)に転じ、名古屋支店主任となるが、同40年春独立して名株の仲買店を開業する。株式界に旗揚げしたとたん、即述のように大ガラに見舞われ、前途多難である。だが、早川は失敗、転職をかてにずぶとさが増し、開き直っているようにみえる。

「弊店は弘法大師の紋章を用いて目印となせりと。その故を問えば、いわく『成り金になりそこない、頭を丸めて仲買人となれるをもってなり』と。…同氏が頭髪を極めて短く刈り込み、店前に座せる相貌はいかにも僧侶然たり。かつては神官を志した早川は失敗を重ねた揚げ句弘法大師に帰依す。その心理の変遷また妙なりというべし」(慶応義塾出身名流列伝) =敬称略

信条
・経済動乱に乗じ一獲万金ねらう
・成り金になりそこない、頭を丸める
・弘法大師の紋章を社章とする

(はやかわ まんのすけ 1873-没年不詳)
明治6年愛知県春日井郡清洲村の農家に生まれた。伊勢皇学館に入り、のち上京し慶応義塾に入学、同27年卒、故郷に帰り神宮司庁為替方を拝命、同29年三重県茶業組合の嘱託となる。新潟の蔵王石油などを経て同35年名古屋の手形交換所幹事、藤本ビルブローカーののち同40年名古屋株式取引所の仲買店を開業。

【国際】日韓経済人会議、9月以降に延期か 韓国報道【日経】

【ソウル=山田健一】韓国の聯合ニュースは10日、日韓企業のトップらが意見交換する日韓経済人会議の2019年の開催が、当初予定の5月から9月以降に延期される見通しだと報じた。経済界関係者の話という。韓国大法院(最高裁)が日本企業に元徴用工への賠償を命じる確定判決を出したことに伴う日韓関係の悪化が、理由とみられる。

日韓経済人会議は両国の経済協力促進などを目的に1969年から毎年続いている官民合同会議。18年は東京で開かれ、今年はソウルで予定されている。韓国に拠点をもつ日本企業の間に、現時点で日韓関係を理由に韓国企業との取引を減らす動きはほぼ無いが、今後は渉外活動を中心に影響が広がる懸念もある。



検討を要す。