今日のブログはちょっとつまらないかな...

 

グリコと行田の古墳 

日曜日の朝は普通は日本語教室(水曜日と違う場所)に行くけど、今回は休んで2人で出かけた。北本市にあるグリコ工場に行って見学ツアーに参加した。オーストラリアのCadbury工場にも行ったこともあるし、ハンブルグのチョコレート博物館「Chocoversum」にも行ったこともあるし、チョコレート・おやつの工場見学は初めてじゃないけど、全部日本語だったのではるか一番分かりづらかった!ツアーが見学コースの間知ったことについてのクイズで終わって、クイズに勝った人は美味しい商品をもらうとガイドが言った。2回目として来たからとても自信がありそうな8歳ぐらいの男の子がいてガイドが彼に美味しい商品が出るのを何回も思い出させてわくわくさせたけど、子供が大変がっかりすることに9袋入りのトマトプリッツを受賞したのはツアーの半分だけぐらいわかった外人の私だったニヤニヤ。更に見学ツアーに参加した皆が2袋入りの旨サラダプリッツも二つずつもらったから行ったよかったなぁと思った。

そして、豊富な成果を持って行って行田市に向かって出発した。まず忍城を見に行った。お城がちょっと小さいけど、敷地が長閑で特に橋と堀の背景にお城は奇麗な眺めだった。道路を渡って歩き続けようとしたとき、駐車場が5時までだと思い出して出なくてはいけなくなったから車で古墳の方面に向かった。途中で水城公園で止まっていけをぐるっと歩いた。行田市はすごく綺麗で住みやすそうなところだった。外国人も多くてびっくりして、岩国を思い出させて近くにアメリカ軍基地があるだろうと思ったけど、あるかな。歩いている間に古代蓮の里を通った。花は奇麗なんだけど、蓮の実が気持ち悪くてたまらなかった。多くの穴や斑点の集合体がこういう反応を悩まされる人が少なくなくて、トライポフォビアという恐怖症なんだけど、本当に怖い。とにかく、車に戻って古墳まで運転した。1000年以上前建てられた不思議な鍵の形が浸食に害されないで現在にも見られるということは本当にすごい。笠原直使主の家族の墳墓だと推定されていて、鎧や剣も発見されているそうだ。でも、古墳を調べたところ、前方後円墳が約5000基あって、かぎの形をしていない古墳も含めたら、160000基以上あることを知った。だから、すべての古墳の中に偉人や飾り物が埋まっているはずがないじゃないか。

 

一番大きい古墳が大阪にあるから、一度見に行きたい。

 

 

詩の翻訳 ドイツ

大学の頃、ドイツ語と言語学を専攻して、オナーズもとりました。オーストラリアやカナダやイギリスなどの国ではよくあることなんですが、オナーズとは一年程度長く学んで(専攻に関わる)好きなトピックをリサーチして論文を書くことを示します。私はティル・リンデマン(好きなバンドのラムシュタインの歌手)が書いた詩集の英訳とその釈義を書いて提出したのですが、今週リンデマンの新しい本を注文して楽しみで仕方なくて、待っている間リンデマンの詩を日本語へ翻訳してみようと思いましたが、やっぱり日本の典型的な詩はヨーロッパの詩とは全く違って、日本語にはどうやって訳せばいいか分かりません。というのは、明日から、ヨーロッパの言語から日本語への普通の翻訳方法を研究して、短い論文といくつの翻訳の試みをこのブログで投稿します。

 

今回も、コメントや訂正、お願いしますしっぽフリフリ

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地元の公民館に外国人向けの日本語教室が毎週水曜日に行われるんですが、昨日も出席しました。教室は無料で、ボランティアが一対一生徒たちに教えます。いつもの通り、生徒が少なく(3人ぐらい)、ボランティアの人たちのほうが多くおり、生徒のいないボランティアの方々が読書したり、携帯で遊んだりして、時間を潰しました。今回、いつも担当してくださり、様々な教材を用意して教えてくださる人にどら焼きを感謝の印として持って行って差し上げました。喜んでくれました。

 

授業で、アガサ・クリスティーの記憶喪失に関する記事を読みましたが、記憶喪失といえば大学の哲学授業で聞いた興味深い話を思い出させました。これはフィニアス・ゲージというアメリカ人の鉄道建設の労働者の話です。ゲージは鉄の棒が頭を完全突き抜けて左前頭葉の大部分を破損するという事故で生き残ることだけではなく、そしてその左前頭葉への破損の影響でゲージの人格や行動の劇的な変化のあまりに、ゲージの友達に「もはやゲージではない」と言わしめたことで知られています。記憶喪失にも悩んだかと思い込んだけど、調べたところそれが違うと知りました。しかしながら、この件が脳の構造や機能の科学的な理解にも、哲学における同一性を巡る討論にも、大した影響を与えました。

 

 

 

さて、ゲージの友達でさえも、事故後のゲージに会ったら「もはやゲージではない」と言わずにはいられなかったんですが、実際に別人になったのでしょうか。何によって人のアイデンティティーを定義すればいいのでしょうか。一生にわたって、自分または知人が、ずっと同一の人だと考えさせるのは何なのでしょうか。この件からすると、それはある人の人格だと言えるかもしれません。しかし、ゲージの名前も、(回復した後で)見た目も、記憶も事故前とのおなじでした。尚、不慮の事故を見舞われずに、関係とか体重減少とか成功とか失敗とかで精神的な影響を受けてまるで別人になったような人も偶にいますが、好きじゃなくなることもあるにしても、その人が実際に異なる人になっていると信じないのではないでしょう。

 

 

 

 

それなら、人格ではなければ、記憶なのでしょうか。記憶喪失に悩んでいる人があなたと一緒に過ごした若い頃が思い出せなくなったなら、まだ同一の人だと言えるのでしょうか。ほとんどの人はその人が同じ人だと少しも疑わないはずなんですが、私もそう思います。記憶障害のない人々でも日常生活の中でやったことをすべて覚えるわけでもなく、その多くが記憶から消されてしまいます。したがって、人のアイデンティティーを記憶によって定義することもできないようです。

 

 

 

 

では、記憶でもなく、人格でもなければ、ある人がずっと同じ体の中に生きているという事実でその人の同一性を判断できるのでしょうか。何よりも、ある人をその人の見た目と関連すると思います。ですが、人体が形成している細胞が生産から死亡にかけて短いスパンで生まれ変わり続けていくと言われています。こうして、臓でも、現在形成している細胞が子供の頃の心臓を形成している細胞が全く異なる細胞なのに、なぜ心臓も全く違う心臓になっていると考えないのでしょうか。細胞がすべて一斉に生まれ変わるのではなく、個々に死んだり生まれ変わったりして、心臓内の恒久的な結びつきがあるからなのでしょうか。

 

ある人の性格や人体構造などには一貫性がない場合としても、こういう矛盾にも関わらず、人間として、ある人が実際に別人になることが可能だと、少なくとも俺は言いかねます。どう思われますか。