今年2017年の土用の丑は

 
7月25日(火) 一の丑
8月6日(日)   二の丑
 
昨年は1回でしたが、今年は2回あります。通称、二の丑。
 
そもそも、土用とは、季節の始まり(立春·立夏·立秋·立冬)前の18日間ずつ配当されているものです。
 
夏の土用は7月19日(火)から8月6日(日)になり、この期間は土木行事など土を動かすことを忌む俗信があります。
 
そして、四季の土用の中で夏の土用は特に注目をされます。それは、夏の土用は暑く、人間の体力を激しく消耗してしまうからです。
 
 
昔から夏ばての予防に鰻を食べる習慣がありましたが、丑の日決めたのが『平賀源内』がです。それは鰻屋の知人が源内に
 
「どうすれば鰻が売れるか」と相談されて、
 
「”土用の丑の日”に鰻を食べると夏ばてをしない!!と宣伝したらいい。」
 
と言ったそうです。それが見事、大流行!!



それが現代にまで続いているという事です。
 
この『平賀源内』という人物は、一体どんな人でしょうか。
 
平賀源内は(1728~1780)江戸時代の中期の人物です。
博物学者・作家・画家・陶芸家・発明家であり、あらゆる分野で才能を発揮した天才・奇才と言われました。
 
高松藩足軽白石良房の三男で、24歳の時に藩の命令で長崎に留学、蘭学を修めています。そして、江戸において植物を主にした漢方医学の”本草学”を学び、1757年(29歳)の時、全国の特産品を集めた日本初に博覧会を開き、それを元に図鑑「分類品隲」を刊行、世の注目を浴びていきます。


本草学者として名を成した彼は、高松藩の薬坊主格となりましたが、藩が許可なくては国内を自由に行き来できない事に不憫に感じ33歳の時に脱藩します。
 
源内は自ら”天竺浪人”と名乗り、秋田秩父での鉱山開発、木炭の運送事業、羊を飼っての毛織生産、輸出用の陶器製作、珍意思・奇石ブローカーなど、様々な事業に手を出します。
 
また、静電気発生装置”エレキテル”、燃えない布”火浣布(石綿)”、万歩計、寒暖計、磁針器など100種に及ぶ発明品を生んでいきました。正月に初詣で買う縁起物の破魔矢を考案したものも源内です。
びっくりするほどの天才ぶり!!びっくり
 
一方で、画才、文才でもある源内。油絵を習得して日本初の洋風画「西洋婦人図」を描き、司馬江漢、小田野直武らに西洋画法を教えています。
浮世絵では多色刷りの技法を編み出し、この版画革命を受けて色とりどりのカラフルな浮世絵が誕生させています。

源内が様々な分野で活躍して、その天才ぶりから江戸時代の人々に人気がすごかったそうです。あの天才が言うからには本当に良いんだろうと...当時の人々は土用の丑のウナギを信じたのだろうと思います。
 
しかし、晩年になってくるキワモノ扱いされて当時の社会を受け入られず、やがて自分自身も世間に対して冷笑的な態度を取り始めます。著作では封建社会をかきおろす作品を発表し、幕府行政の様々な矛盾を痛烈に暴露しています。
 
晩年(1778年)、50歳になった源内は自分を認めてくれぬ世に憤慨し、エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされたこともあって徐々に人間不信になっていきます。
 
自宅を訪れた大工の棟梁二人と酒を飲み明かした時のこと。源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいたはずの大事な建築設計図がありませんでした。とっさに盗まれたと思った源内は、大工二人を斬り殺してしまいます。しかし、その図面は源内の懐ではなく、帯の間から出てきたのでした。
 
源内はその罪によって投獄され、極寒の小伝午町の牢内で獄死をしていきました。(享年51歳)
 
源内の晩年は、寂しさや孤独感・被害妄想から悲劇が生まれてしまいました。

源内は世間が認めてくれない!と思っていましたが、土用のウナギの風習が大流行し、しかも現代まで続いていた土用のウナギの風習をみてみれば、その天才ぶり、人気は確かな事だったと思います。

普通、流行は一時的なものがほとんどですよね。一発芸人みたいな感じチュー
 
源内は、大天才といっても結構、失敗も多くありました。多くの功績は、何度も失敗しても様々な事に挑戦し続けたからだといえます。

源内は、まさに日本のエジソンというべき人ではないでしょうか。
 
日本食文化として定着した土用の丑の日。

ウナギを食べながら、当時の江戸時代の人々の源内に対する想いを寄せてみるのも、また一興かなと思います。ウインク
 
清吾-SEIGO-