もう一つのミッドウェー | zojurasのブログ

ミッドウェーでは4空母の損失の陰に隠れて、一隻の巡洋艦の最期は知られていないような気がします。

一等巡洋艦三隈

 

昭和南雲艦隊機動部隊は、北太平洋上のミッドウェー島攻略作戦を開始したものの、「利根」の偵察機が発進直前にカタパルトの故障等のトラブルによって発進出来ず、更にアメリカ側の日本の暗号解読と、情報収集をまんべんなくやった結果、米側の攻撃は日本側の虚を突く形となり、日本は「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」といった4隻の主力空母を失い、戦局は決してしまいました。

三隈は最上と共にミッドウェーに参加した

 

そんな右往左往する機動部隊の混乱の中、栗田少将率いる第7戦隊の二隻の巡洋艦が衝突事故を起こしてしまいます。それはロンドン条約によって1万トン以上の重巡洋艦の建造が規制され、8500tに制限された軽巡洋艦であるものの、有事の際に5基ある主砲が15.5センチ3連装砲(後に大和級戦艦の副砲や、本土防衛用砲台に転用)から、20.3センチ連装砲を装備した重巡洋艦へと変わる事が出来る最上級巡洋艦の「最上」と「三隈」でした。

 

来るべき大戦を見越し、二等(軽巡)から一等(重巡)へと変わる様に平賀博士らによって生み出された最上級巡洋艦でしたが、砲戦によって敵水雷部隊を圧倒する筈の20.3センチ砲は同年の3月1日のバダビア沖海戦以降は戦争の形態が変わった事もあり、主砲は能力を発揮できたとは言い難く、そしてこの戦いの結果、日本は撤退を開始するものの、ここで思わぬ悲劇が退避行動中の二隻の重巡に降りかかります。

 

三隈と最上は衝突事故を起こしてしまい、最上は大損害によって低速となってしまい、栗田中将は三隈に最上の護衛を任せて自身は同じ最上級の「鈴谷」(3番艦)と「熊野」(4番艦)を率いて先に撤収しましたが、その結果が二隻を敵から逃す囮のようにされたのも否めず、手負いの二隻に米航空隊が更に襲いかかり、三隈は最上を守る様にして奮戦するもやがて力尽きて7日に沈没。崎山艦長と高嶋副長をはじめとする680名が戦死しました。残った最上はどうにか命を繋げたものの、姉妹艦の三隈の最期は日本初の損失重巡となっただけではなく、海軍の主流が航空戦力という波が遅まきながらもカウンターパンチという形で海軍全体に及んだものでした。

 

しかし、山本長官が声高にしていた航空戦力の脅威を感じ取るのが遅く、それに応じた対応を採るのも日本は遅く、そしてそれを有効に活かせぬまま、そして有効策を採っても、アメリカという大国相手にはあまりにもぜい弱過ぎたというのも、否定できない事実であり、それを思い知った日本にとって、4空母と三隈の損失で払った代償はあまりにも大きく、その代償を後々カバーできずに崩壊していったのもまた、太平洋戦争の現実でした。

 

第7戦隊を指揮していた栗田健男少将といえば、これの前のバタビア海峡での自艦の安全を守る為に攻撃をためらって輸送船団に被害を与えたり、これの後のガダルカナル飛行場砲撃でもどこか徹底性に欠いていたし、そして一番有名なレイテでの敵輸送船団攻撃のチャンスをフイにして反転してしまった事で、「臆病な指揮官」というレッテルを当時から貼られ、戦後もそういう言葉に責任を感じてか、抗弁する事もなかったそうです。

 

栗田中将は海軍参謀だった故吉田俊雄さんの分析では「船乗りとしては危ない橋を渡らない合理的性格だったが、それが必ずしも軍人としての能力に合致するものではない」となっていました。また、栗田中将は当時の海軍の大勢だった大艦巨砲主義のグループに入っていた(因みに機動部隊の南雲忠一中将でさえも)といわれています。

 

しかし、航空機の脅威を目の当たりにして、遅まきながら航空機の凄さが戦艦の大砲や駆逐艦の魚雷を上回るという事に気づき、それによって危険を感じ、消極的になったのかも知れないし、そんな脅威をガダルカナルにしろ、レイテにしろ見せつけられる事になって・・・という思考が働き、安全策を採る方法を選んだのでは?とも思えます。けれども軍隊では「敵前逃亡」という形にされてしまうケースもあるし、そういった軍隊社会が持つ矛盾に何も知らないままぶち当てられたといえるかもしれません。

 

最上を逃がした三隈の最期は、後のレイテで「大和」を行かせ、敵の囮となって散った「武蔵」の姿を予見させるような気もします。そのレイテでの戦いで反転し、戦後何一つ抗弁せずに生きた栗田中将の気持ちが判っていたのは、同じレイテで機動部隊の死に花を看取り、最後の聯合艦隊司令長官であり、栗田中将が死に際(1966年)を看取った小沢冶三郎中将だけだったのかも知れません。

大日本帝國海軍最上級一等巡洋艦三隈 

全長:200.6m

全幅:18.9m

排水量:12100t

機関出力:152432hp

速力:34.74kt

武装:50口径20.3cm砲×10 40口径12.7cm砲×8 25mm機銃×8 13mm機銃×4 61cm魚雷発射管×12 

搭載機:水上偵察機、観測機×5

乗員:894名

 

昭和6(1931)年 12月29日 三菱長崎造船所で起工

昭和10(1935)年 8月29日 竣工

昭和14(1939)年 11月15日 主砲換装作業に入る

昭和16(1941)年 12月4日 マレー支援作戦参加

昭和17(1942)年 1月23日 エンドウ上陸作戦支援 2月10日 バレンバン上陸作戦支援 3月1日 バタビヤ沖海戦参加 最上と共に米巡洋艦「ヒューストン」 豪巡洋艦「パース」を撃沈 4月1日 ベンガル湾機動作戦参加 5月22日 ミッドウェー作戦参加 6月5日 ミッドウェー作戦中止撤退時、最上と衝突 7日に米機の攻撃で沈没 8月10日 除籍