なかなか修論も手につかない。今日はそういう日なんだろうか…やっぱり手帳に予定を書かないと。
彼女とけんかしたせいもあるのかな…けんかというかこちらが強気であれこれ言ってたら、向こうが急に自己嫌悪に陥って「ちょっと距離を置きたい」って。。困ったなぁ…
なんだかしんどくなってしまう。
ぐだぐだしてると車屋から電話があって、ジムニー40周年記念車は1月半ばごろには注文しないと受注打ち切りになるらしい!
急がなきゃ!
まぁちょっと早くジムニーがきてうれしいけど☆それを励みにいろいろがんばろう。
12月3日・4日と2日連続で教区センターで報告会。
3日は8月に行われたプレ宣教協議会の報告会。
プレ宣教協議会では青年参加者として会議にかかわる。
青年部門メンバーで出し合ってまとめた意見を教区で報告。
30名ほどの人々が来られ、盛況だった。
やはり、みなそれぞれ宣教という課題をとらえ、自分たちの手で、トップダウンではなく、日々の信仰生活とあわせ考え行動していきたい、という思いが強いよう。
聖公会が大事にしてきたもの、聖公会らしさ、聖公会に求められているもの…。一つ一つ深いこと。
神学館長の先生は、「聖公会に求められているというのは、神様が求めている、ということ。その求めにこたえていきたい」と話された。
そうか。なにか、人間の知恵を振り絞って考えなきゃってなるんだけど、もちろん考えるんだけど、神様に祈り、神様の御心にしたがい、御言葉に耳を傾け、行動していきたい。
4日、今日は2010年に行われた3つの韓国にまつわるプログラムの青年報告。
昨日とはうってかわって少人数。聴衆が少ないのはなんともさびしい。
14時~16時までで、なんとかしっかりできたかな。
①外キ協(外登法問題に取り組む全国キリスト者連絡協議会)主催の「多民族・多文化共生キリスト者青年」現場研修プログラム
②日韓聖公会青年セミナーについて
③「和解と平和の旅について」
韓国併合100年にあたる今年、これらプログラムを通して、参加者は日本の加害の実態を知り、真の和解の糸口を見つけられただろうか。
私自身は青年セミナーに参加して、長崎の地で原爆の被害と強制連行の加害の歴史を学び、プログラム自体は大変よく理解したのだけれど、そこからの洞察力が甘かった気がする。具体的に被害・加害の歴史を学ぶものの、被害者、ここでは韓半島の人々の痛みをどれだけ自分の痛みとできていただろうか。いや、むしろそのような点に思いも及んでいなかったのかもしれない。
今日の報告会には彼女さんも来てくれていたが、彼女が日韓セミナーの報告を聞いた感想を述べてくれた。
日韓セミナーでは「主の平和」というテーマのもと、「和解」に向けた「劇」を日韓双方に分かれて脚本・演じた。
日本の青年はあれやこれや悩み、過去を次世代に伝え、教育していくということの重要性を意識し、20年後に自分たちのこどもに日本の加害の事実と責任を伝えている様子を演じた。
一方、韓国の青年は、日本に受けた被害の事実を学校現場のいじめ問題に当てはめて脚本した。具体的には、日本が欧米に開国を迫られた後に朝鮮を同様に開国させ植民地化していった過程を、学校で起こる暴力・いじめが徐々にエスカレートしていく様子、弱いものがさらに弱いものをいじめる構図を描き伝えた。そして、数十年後の同窓会(なぜか「世界聖公会平和会議」という会場だったが)、そこで過去の暴力、いじめを加害者が真摯に謝罪し、被害者もそれを受け入れ、主の祈りを唱え平和の構築に向けた努力をしていく…という内容。
脚本・演技力すべて韓国青年の作品は素晴らしいもの。よく思いが伝わった。
ただ彼女さんはこの日韓両国の脚本を聞き、現在の日本と韓国のもつ問題を深くよみとった。
すなわち、日本の青年は過去をしっかりと振り返り受け止めることなく、未来を優先的にみる。過去の上に成り立つ未来というよりも、「今から自分たちがしなければならないこと」を重視している。
一方韓国の青年は過去に受けた被害を、もちろん彼ら自身が受けたものではないのだが、自分自身の痛みとして受け止め、苦しい中でその出来事を克服し、次のステップ、和解へと進もうとしている。真の和解に近づいているのは、韓国側ではないか。韓国の教育のあり方もいろいろと問題視されるが、キリスト者として、人の痛みを自分の痛みとする、というところが韓国青年のなかにある気がする。ぎゃくに日本の青年は、過去の加害の事実をよくよく学び理解するのだけれども、それを自分たちの痛み、加害をしてしまった痛み、被害を与えてしまった痛み、被害を受けた韓半島の人々の苦しみ・痛みとして受け入れることができていないのではないだろうか。だから、様々な話をしたときに、日本の青年がどうも表面的にうまくまとめるような未来志向になり、韓国側の青年とのずれができてくるのではないか。
このような感想だった。
この指摘は鋭い。確かに両者の脚本は正反対のものである。
私自身、一般的よりはいろいろと考えているつもりだった。
だけれども、それは事実レヴェルにとどまることであったわけで、真にキリスト者としての責任、相手の痛みを自分の痛みとして受け入れる、それはとてもできていなかったということだ。
過去の加害と被害を、直接行為者ではない自分の痛みとしてとらえなおす、そのためにひとつひとつの事象に思いをはせる、祈る。
今日はとても大きな課題、自分のなかでのこれからの課題が見つかった。
痛み。
まだ、私は遠いところを彷徨っている。