謝った理解が多いことで知られる「情けは人の為ならず。」解説 by wiki
情けの解釈も色々あるだろうけど、最近はわかっていても摩擦や軋轢が起きるのを敬遠して、注意や忠告をせずに放置する人が多いように思う。
非常に風通しの悪い世の中になりつつある。しかも精神衛生上もよくない。なぜなら、「なんでこんなこともやらないんだろう。。」と心に思って自分で行動してしまうからだ。ある意味、あきらめといってもいいのだろう。
で、タイトルにつなげると、諦めは情け(人に忠告さえしない。)さえかけない行動じゃないかと。実際、忠告や注意を受けているうちはまだいいのだ。だって気にしてもらえているのだから直しようがある。だが、誰にも注意されず、本人に気づく力がなければ本人の能力(人的価値)はそこから向上することは難しくなる。
精神衛生上悪い環境になることを考えると、やはり情け(人への忠告)は人の為ならず。自分が働きやすくするための行動なのだといえるだろう。
まぁ昨今では忠告をしたところで自分を変えようとしない人が多く、その場では形式上繕うパターンをよく見かける。本質が変わらなければ意味がないのに。
人の価値観を変えることは非常に困難だ。だからこそ、何がスタンダードで、最低限守るべきルールというものが世間には存在する。
仮に明文化されてなくても、ある物事において一定の水準を超えて、お互いに認めあう人達が暗黙のラインで守るべきルールを個人的に「唯全な考え」と呼んでいる。
「唯一にして、それが全て」抽象的すぎるけど、常識のある人々から考えたらありえないようなことが世の中には蔓延している。それは風通しの悪い会社であったり、常識はずれの人がいたり、日本の政治であったり、様々だ。
唯全な考えは、時に危険だ。なぜならそれが正しいとは限らないから。しかも多数決をとる人達をどこで抽出するかでマジョリティになるかもしれない。そんなときはなぜそう思うのか、実際にはどうなのかを正しく評価するシステムが必要になるのだろうけど、そんなのはできそうもない。
話はずれたけど、「情けは人の為ならず」。
人に直した方がいい部分があれば、諦めずに進言できる。
悪いものは悪いという。
心にある疑問は必ず解決させるという努力を陰ながらでもしていけるようにしようと思う。