🐉前回


私は、自然に存在する『ゆらぎ』について述べた。自然の『ゆらぎ』を、人間がつくり出す絵画やアニメーションで再現することは、今のところ、できていない。


より深く、自然を観察するならば、そこには『ゆらぎ』のほかにも、視覚では捉えることができないいくつもの要素がある。

たとえば、植物の匂いは、嗅覚で捉えられるものだけれども、目で見ただけでは、わからない。

自然の空間そのものにも、人工的な学校の校舎にはない匂いがある。


特定の場所に満ちた匂いが、その場所の雰囲気をつくることもある。病院には、いくつかの薬品の混じったような匂いがある。寺では、線香の匂いが、荘厳な雰囲気を演出する。

昔の日本人は、視覚では捉えることができない雰囲気を『にほひ』とよんだ。

もっとも、こちらの『にほひ』は、ただ嗅覚だけではない。それは、場の総合的な雰囲気のことである。


詩人は『にほひ』の感覚を、鋭敏に受け取る。たとえば、萩原朔太郎の処女詩集である『月に吠える』には、すでに『すゐたる菊』という嗅覚的な表現がある。

『にほひ』を『雰囲気』と言い換えるならば、世界各国の詩人たちが、視覚では捉えることができないことを表現しようと試行錯誤を重ねてきた、ということがわかる。アメリカの作家ポーは、詩の中から教訓を排して、ただ美そのものへの渇きだけを表現するために『真の芸術家はつねに情熱、義務、真実を抑えて、それらを詩の雰囲気であり本質であるかの美にしかるべく従属させようと努力するのである』と述べている。


わが国では、ポーは、怪奇作家として有名となってしまったけれども、彼の故国では、詩人としての評価も高い。

おそらく、萩原朔太郎やポーが読まれつづける理由は、その『雰囲気』の表現によるものだろう。

そして、具体性をもたないものが無用の長物だと思われがちな現代でも、詩は書かれ、その『にほひ』とともに読まれているのである。

(つづく)