🐉前回




美術作品には、作品の空間がある。一度、絵画の話に着目することとしよう。絵画には、作品の中の空間がある。イラストレーションや、漫画にも、そのような空間がある。

われわれは、絵画の世界などというものが虚構にすぎないことを、よくわかっているにもかかわらず、その一方で、その虚構を求めることさえあるのだ。

しかし、絵画の世界に傷口をもたらす剣には、二次元の人物像など、かなうはずがないのだ。


情報過多の中にいるわれわれは、視覚優位の感性に囚われすぎている。

あるいは、そもそも、スマートフォンのアプリを使用してブログ記事を書くということ自体が、視覚優位である、といえる。


人工的なイメージに囲まれている、という状況は、やはり、反自然的なのだ。都市に住む人には、うつ病の割合が高い。人間どうしの摩擦が多いということもあるかもしれないけれども、私がたまに東京へ行くときに、人工的な空間そのものが、われわれの原風景を剥奪してしまうような感じをもつことがある。すでに、私の住む県内にさえも、反自然的な土地がある。


インターネットの空間というのも、また、基本的には人工的なイメージによる、視覚優位の感性によって構成される。それを、かりに『反自然の視覚優位』などと名付けるならば、そこには、自然の環境にあるはずの『ゆらぎ』がない、という特徴に気づく。

たとえば、ストレス解消法として、私は音楽も聴くようにしている。α波という安らぎの脳波を出す音楽には『1/fゆらぎ』という独特のゆらぎが含まれている。

もちろん、自然環境の中で、草木を観察することも、視覚を利用する。

しかし、視覚によって視覚を超えたものを見る、ということもある。ほんとうに自然を観察したことがある者が知っていることは、色や形を観察することだけではなく、自然にしか存在しない『ゆらぎ』を観察することなのである。いや。それらすべての総合である、と言い換えたほうがいいだろう。絵画やアニメーションでは、この『ゆらぎ』を、ある程度の妥協点で表現することしかできないのだ。

やはり、自然こそが、最高の芸術である。

(つづく)