『偉大なる時間』では、私は、時間について述べた。

それに続いて、本稿では、空間についての思想を探ってみようと思う。


私が最近知った、反芸術の巨匠というべき作家がいる。その人は、フォンタナという、アルゼンチン生まれのイタリア人だ。フォンタナといえば、ロック・ギタリストにも、似たような名字の人がいる。南米には、このような名字が多いのだろうか。



先程、フォンタナを『最近知った』と言ったけれども、ここで、訂正しておこう。私は、ただ、フォンタナの存在を、忘れていただけだった。何年も前に、私は、高階秀爾によるフォンタナについての評論を読んでいた。そのときは、三次元的な作品に興味が湧かなかったため、記憶していなかったのである。

そのころは、ロックにも興味を抱いていなかった時期だ。最近は、ジャズも聴くけれども。


フォンタナの『空間主義』とよばれる作風の特徴は、一色塗りのキャンバスの画面に、裂け目や穴が空いている、ということだ。画面上に開かれた、その傷口の裏側には、網が張られている。絵画の中にあるはずの、二次元の世界は、ポッカリと空いた空間によって、無となって、侵食されるところだ。


作家みずからの発言によれば『画家として、キャンヴァスに穴を穿つ時、私は絵画を制作しようと思っているのではない。私は、それが絵画の閉鎖された空間を越えて無限に拡がるよう、空間をあけ、芸術に新しい次元を生みだし、宇宙に結びつくことを願っている』ということだ。


まあ、私は、まわりくどい芸術論とやらには、ただ一言『気にするな』と言いたい。

何を語ったとしても、あの傷口が、絵画をおしまいにしてくれる。



先日、ZEN展のための用事で、春日部へ行った。

行き帰りに、川沿いの公園を通過した。帰りに公園に寄った私は、初めて、湿地というものを観た。

無数の小さい蓮のような植物が、水面に浮いていた。



上野に咲く弁天さんの池の蓮は、それらよりも数倍大きい。私は、蓮の種類を知らないけれども、春日部の湿地にあるのも、おそらく、蓮の一種なのだろう。


その、ミニチュアの蓮池のような湿地に目をやり、つかの間、心を休めてみた。釣り竿をもった人がいる。このような浅いところでも、何か釣れるのだろうか。

葉っぱに目線を近づけると、私が、カエルにでも変身したような気分だ。それが、小動物の目線だ。周囲を飛び交うトンボと、私の視線が、同じくらいの高さにある。


一体、人間の基準でいう『空間』とは何なのか。

日常の基準に慣らされた目では、見ることができない空間概念があるのではないだろうか。

(つづく)