こんばんは。
 劇団ZERO&劇団深夜特急2022年度卒業公演『AURA』演出・脚本・日向役の加藤蒼野です。

 『真昼の星』の脚本etc……だったいろはちゃんライクに、誰にも断りを入れずにブログを書こうと思います。

 死に損ないの四回生が最後の最後に残す駄文くらいに思っていただければと思います。
 当然のようにネタバレ込でお話させていただきますので、そのつもりでお願いします。

 内容は、2022年度卒業公演『AURA』の物語のテーマ、私が台本を書いている時に思っていたこと、私個人の台本の解釈です。
 うるせぇ! 自分の解釈の方がいい! となりそうだな、と思う人などは、ブラウザバックをお願いします。
 自分の解釈が合ってるか確かめたい! などの方はそのままお進み下さい。



↓↓↓この先、あとがきチックな駄文↓↓↓

















 2022年度卒業公演『AURA -アウラ-』のテーマは、タイトルにもなっている「アウラ(一回性)」です。
 なんだそれ? って方のため、『現代美術用語集』からの引用を載せます。


アウラ(Aura)独

機械的複製によって芸術作品のコピーを大量生産することが可能になった時代において、オリジナルの作品から失われる「いま」「ここ」にのみ存在することを根拠とする権威のこと。漠然とした霊的なエネルギーを指す英語の「オーラ」とは意味が異なる。ドイツの思想家であるヴァルター・ベンヤミンが、1930年代に執筆した「複製技術時代の芸術作品」や「セントラル・パーク」といった論考において提起し、広く用いられるようになった概念である。
(高橋聡太「アウラ」、アートスケープ『現代美術用語集』大日本印刷、2022年12月15日確認、https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%A9)


 ……なんの事だかピンと来ないでしょう。難しいですよね。
 一言で言えば、「生感」というふうに言い表せばいいのかな、と。
 ライブやフェスに行った時の、"CDやDVDでは味わえない、その瞬間しか肌で感じられないあの感覚のこと"、でいいと思います。多分。
 どうやら言い出しっぺのベンヤミンさんも定義が曖昧? らしいんですよね……。


 現在では、音楽や映画や小説(物語)等は「複製可能」なものです。店頭に並んでいる同一商品は、どれを取っても全く同じクオリティのものが楽しめてしまいます(個体差とかはさておき、その内容物は全く一緒です)


 しかしそんな現在でも、「今、ここ」の権威を保持し続けている芸術があります。

 それが、演劇。

 確かに映像を収録したDVDが売られていたりしますし、それを楽しむことは出来ますが、、一般的には劇場に行き、生で見ることが求められていると思います。


 その一方で、演劇は、少なくとも大学演劇は、それを作る側……すなわち我々にとっても「今、ここ」でしか取り組めないコンテンツです。
 何ヶ月もかけて準備を進めたのに、本番を迎えてしまったらそれで終わり。もうその当時の役者陣で、同じ舞台を見る機会は二度と得られない。
 ぐずぐずしてると次の公演がやってくる。あとは話す機会があった時に懐古厨するしかない。
 ……第三者目線では、それを青春と言い表すんでしょうが。

 我々の代(と、二つ上と下くらいの代)は、そういう機会をコロナ禍によっていくつか失ってしまいました。
 そして、少なくとも加藤自身は、そうなってしまって強く思ったのです。

 「もっと真面目に公演に参加しとけばよかった」


 今しか見れない、あるいは今しか出来ないことと向き合うのであれば、中途半端なことはせず、必死こいて取り組んで欲しい。もしくは、完全に受け取り手として目いっぱい楽しんで欲しい。

 要は、何事にもしっかりと決断を下して欲しいのです。トロッコ問題のトロッコの線路を中途半端な位置のまんまにして、結果大事故を起こして「あっちに変えときゃよかった」と後悔するような真似をして欲しくないのです。


 確かに、今、ここのタイミングで、何をやるべきで、何をやらないべきなのかは、分かりません。正直、誰にとっても分からない、けど、だからといって何もしない、選ぶ権利を放棄して流されるままで何となくそうしてるっつーのは多分違うんです。
 やって良かった、やって後悔した、は比較的マシなんです。クソみたいな大失敗も、次のやべー大成功には必要だったと言い張っちまえるんです。出来事の解釈なんて、んなもん後からどうにでも変えられるんです。
 だからどうか、何をしようか迷っている人々は、「今、ここ」で出来ることの中から何かを選んでやり切ること、自分や身の回りの社会にとっての出来事を積み重ねることを大事にして欲しい。

 そうやって考えて考えて選び抜いた結果、演劇部を辞める、大学を辞めるなどの決断に至ったとしても、私はその選択を深くリスペクトして、背中を押したい。


 『AURA -アウラ-』は、そんな私の後悔から生まれ、演劇というメディアが未だ保持する「アウラ」と、大学生活あるいは人生における、アオハルという"一回性"との、ちょっとした類似性を描く事に挑んだ台本だったのです。

 長ったらしくて眠くなる話でごめんなさい。


 でも、ここまでエラソーなことベラベラくっちゃべっといて、私思うんですよ。

 「選べ」って言われて迷いなく決断出来たら苦労しねぇだろ。こちとらおやつにじゃがりこ食うかトッポ食うかで永遠に悩んでんだからよ。
 あっちなみに私はファミマのコーヒーパンケーキが好き。おやつを求めて寄った際、置いてたら必ず買ってます。
 何かを選ぶ時に、基準とかテンプレを予め決めとくってのは、無駄な思考を減らすためには良い事なのかもしれない。
 そうなんだよ、出来たら楽だよなぁ〜予め決められたら。じゃ、そいつはいつでも出来んのかぁ? (反語

 ちゃんちゃん。


 最後に、邦ロックバンド、NEEさんの『DINDON』(https://youtu.be/GL0DOPzTI38)から、歌詞の一節を引用して結びとします。



果てしなく世界はずっと
僕達に投げかける
だけど正解なんて分からないまま



(文責:加藤)