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考察「日本に”トラと呼ばれた兵器”が無い」理由
先行記事「トラと呼ばれた兵器
」において縷々述べてきた通り、英語はじめとする西欧語圏には、「トラと呼ばれた兵器」が相当にある。対して同記事冒頭で述べた通り、日本語・日本軍・日本には「トラと呼ばれた兵器」が、トンと無い。これも同記事冒頭に述べた通り、「虎に関する故事諺」は日本語に相応にあり、そこに描出される「虎」が「危険」とか「恐ろしいモノ」の象徴である(らしい)のにも関わらず、だ。
一つには、我が国では兵器・武器を、「強ければ/恐ろしければ、良い」と言うある意味「割り切った/開き直った」考え方を「良しとしない」乃至「忌避する」傾向があるから、では無かろうか。「強い/恐ろしいモノ」であっても、悪魔(F3H Demon戦闘機)とか邪教(F-101 Voodoo戦闘機)とか蛇毒(de Haviland DH.112 Venom戦闘機)なんて「禍々しい名前」を兵器・武器には付けない。
兵器・武器が「強く、恐ろしいモノ」であり、ある意味「力の象徴」であるからこそ、そこに「正義」とか「神聖性」とかの「付加価値を求める」ネーミングとなる、のではなかろうか。二式戦闘機「鍾馗」は「悪鬼を退治した伝説的英雄の名」であるし、空母「瑞鶴」「瑞鳳」「祥鳳」は何れも「目出度い」という形容詞が付く。空母「翔鶴」もあるが・・・「鶴ならば、タダ飛翔しているだけでも目出度い」と考えることが出来そうだ。
その点、虎では、「タダ居るだけでは、恐ろしく、強くはあっても、(日本語で)兵器の名と出来る程の神聖性やプラスイメージが無い(もしくは弱い)」と考えられる。「白虎」として(単に白いだけでは無く)聖獣ないし神様に「昇格」して、漸く部隊名「白虎隊」となる。「タダの虎では、(日本語では)兵器名とするには力量不足」と考えると、相応に合点がいく。
さらにこの考え方を敷衍するならば・・・人名や都市名、州名などの地方自治体名が諸外国の兵器(主として軍艦だが、航空機にもある)には良くあるモノの、我が国では山や川、灘、島、岬等の「自然地形の名」を艦艇名にするが、県市区町村等の「人口地形の名」は原則的に艦艇名とはならない。「大和」や「武蔵」などの「旧国名」となって初めて艦艇名(それも、戦艦という当時主力艦と考えられた重要な艦艇名)となる。人名は、どんな偉人も軍人も艦艇名にはなっていない。
斯様な現象は、「人や現役の人口地形名では、兵器名とする程の神聖性やプラスイメージが無い(または足らない)」と考えることが出来るし、「現在は(基本的に)使われない“旧国名”となって、初めて兵器名たり得る神聖性やプラスイメージを得る」と考えると合点がいく。「旧国名ならば、神聖なのか?」ってツッコミは入りそうだが、「旧国名が帯びるある種の郷愁は、神聖性たり得る。」と反論できよう。
その一方で、日本語では、毘沙門天とか弓矢八幡とかの「武を司り、象徴する神の名」どころか「神の名を付けられた兵器がトンと無い」のも興味深い処である。「八百万の神」とまで言われ、便所の神様竈の神様もおわし、付喪神なんて「物品の擬神化」まで為される我が国で、だ。天皇陛下の権威を象徴する三種の神器の一つ「草薙剣」で、これ自体「ほぼ神様」であると言うのに、「神の名を冠された兵器・武器が無い」のは・・・半ば(以上)カンではあるが、「兵器・武器に対して一定の神聖性(ないしプラスイメージ)の付与を求めつつ、完全な(神の名をかたる程の)神聖性は認めない」という感性・感覚が、日本人ないし日本語にあるから(*1)、では無かろうか。
以上をまとめると・・・
① 日本では、兵器名にも一定の神聖性ないしプラスイメージを求める。その為、単に強い・恐ろしいだけでは、兵器名とはならない。「トラと呼ばれる兵器」が日本には無いのは、このためであろう。
「破邪の剣」「破魔矢」はあっても、「破滅の大剣」はゲームぐらいにしか登場しない、らしい。
② 一方で日本では、兵器に「神の名を冠する」ほどの神聖性・プラスイメージは認めず、「神の名を冠する兵器」は、原則的に無い。
ゲームや仮想戦記なんかには、ヤマトタケルなんて軍艦が登場してしまうが、やはり「空想上の産物」に留まる。
③ 日本では、自然地形や旧国名にも、兵器名たり得るだけの神聖性・プラスイメージが、既にある。
既に艦艇名となっている天象地象なども、同様と考えられそうだ。海上保安庁の「ひめぎく」級巡視艇に見る「百を有に超す”○○かぜ”という風の名前」も、同様と考えられそうだ。
④ 日本では、人名や現役の人口地形名は、兵器名とするには力量不足=神聖性・プラスイメージが足らない
まあ、歴史上の人物となると、例えば「卑弥呼」なんて兵器が無い理由を、上記④「人名だから神聖性不足」と考えるべきか上記②「神の名(に近い)から神聖性過剰」と考えるべきか、意見が分かれそうではあるが。 また、これらの原則からして、先述の「二式戦闘機 鍾馗」が微妙な位置にあることも否めない。「人名」と考えると上記④から兵器名として相応しくなく、「神様の名前」と考えると上記②からやはり相応しくない。「例外」と規定すべきか、「伝説上の人物」として「神と人の中間」と位置づけるべきか、やはり意見が分かれそうだ。
無論、「日本人のネーミングセンス」が「時代と共に変遷する」可能性は、考えねばなるまい。上記で上げた兵器名や部隊名は「幕末から現代までのモノ」で、先行記事「トラと呼ばれた兵器」で取り上げたのも江戸時代ぐらいまでしか遡っていない。
また、兵器・武器の持つ意味・意義・イメージも、時代の影響を大いに受けよう。それに伴って「日本の武器命名法」も変遷する可能性がある。
更には、戦後自衛隊となってからは、帝国陸海軍程にはポピュラーネームを付けず(愛称、ぐらいはあるようだが・・・)西暦年号の末尾二桁を取って「○○式××」が多くなって、「兵器に命名する」機会は減っている。
それでも、海自艦艇には固有の艦艇名が与えられ、その命名基準は大凡帝国海軍に準じている(潜水艦などの例外もあるが・・・)ため、上述の「日本人の日本語武器名のネーミングセンス」は、戦中戦前の大日本帝国時代と「大差は無い」様に思われる。
従って、私が上記①から④の通り考察した「日本語における兵器名・武器名のネーミング原則」は、21世紀の今日にも未だ通用するモノである、と考えるが、如何なモノであろうか。
- <注記>
- (*1) 「日本語に、・・・・という感性・感覚がある。」って日本語が「変」だと言うことは承知している。左様な感性・感覚を有しているのは「日本人」の方であって「日本語では無い」というのが、論理的ではある。
- だが、その感性・感覚が宿っているのは、果たして「日本人」の方であろうか?それとも「日本語」の方であろうか?
- 言い替えよう。私も含めて日本人に左様な感性・感覚が宿っているとするならば、それは日本人が日本語を先祖以来脈々と継承してきた結果、では無かろうか。
- 左様な可能性に思い至り、敢えてこのような「変な日本語」を許容してみた。平たく言えば「感性・感覚の伝承」と言うのは、肉体的では無く精神的なモノであり、その媒体の相当部分は言語では無かろうか、という主張ないし提言である。