本当その通りです。
って!!!!
どの口が言っているのでしょうwww

この様な政治家を日本国民が選んでいる事が、もう既に恥ずかしいです。

誰しも一度くらい
なんの為に生きてるんだろうと思った事があるのではないでしょうか。


太古の昔から、誰しもが何度も考察し
自分なりの正しい答えを出してきたのではないでしょうか。

私見ではありますが
何々の為であるのなら
それらを失った時、命を絶つべきでしょうか?

人は愛されなくても、誰からも必要とされなくても
生きて良いし、生きていけますし
また生きるべきに思います。

ですので理由などそこには無く、不必要であり
生の存在自体に意味と答えは寄り添うのではないかと考えます。


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蛇やゴキブリ、ミミズや蜘蛛等がダメな方々が多々いますが

苦手な生き物等を克服する事は可能です。

「怖い」という感情で震えや発汗などの身体反応が起き
それらが脳にフィードバックされ、「やはり怖い」と恐怖が増幅し
さらに頭の中には、過去の経験に基づき自分の様々な行動や反応に対する予測図が出来上がっています。
これらを「フィードフォワード」と言い
時に行き過ぎた予測図を思い描いてしまいがちですが
要は体と脳の思い込みが大半です。

ですので、恐怖の対象に自分を晒してみて下さい。

写真や模型から始めてもいいですが、
まずは10分以上じっと見てみて下さい。
次は10分以上触れてみて下さい。
必ず恐怖心は下がります。
またそれをグラフとして、紙に数値を書けば
感情の変化が自分自身にも客観的に目に見えます。
これは実際に医療現場で使われる手法です。
ちなみに高所恐怖症にも有効です。


元々「恐怖」は緊急事態に対する反応で、エネルギーがそう長くは続かず
本当に危険な場合以外であれば、長くとも15分ほどで恐怖の反応は下がり始めます。

人はあらゆる環境に順応できる生物ですから
上記の事を繰り返して行けば、必ずや克服出来るはずです。


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思い出もある部分が悪いと全体も悪くなってしまう事がある様です。


確かに、負の記憶は感情が甦るほど強いものです。
ですから、その部分だけを封じ込めるのは難しいので
そういった事を思い出した時には
必ず後から「でも」や「だけど」等を付け足してはどうでしょうか?
実はよく女性が使う手法であり、有効な処世術です。

否定しそうになった時、その後で
「でも」アレは良かったや、「だけど」おかげでこうなった等々
負の上に強制的に正を上塗りする事で
プラスに向くことが出来ると思います。

悪い事の数を数える時は悪い方へ意識が向いてしまいがちですから
無駄に苦悩しない為にも良い事の数を数えて行くように、していきたいものです。


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自殺志願者に対して問題を解決出来ないならば

自殺を止めるのは無責任な事だと語る方がおられます。


リバタリアン的な考察に置いて
確かに理に適っていると思います。
問題を解決出来ない以上、問題から逃走する事に意見する権利などなく
誰にも悲しまれず迷惑をかけず、本人の意思で土塊に帰る事を望むのに
止める理由などあろうはずがありません。

しかし、同じ論法で言うなれば
自殺に対して見て見ぬ振りにも同等の無責任が発生するのではないでしょうか。
生きる責任を放棄しようとした人間が
止める事を無責任と押し返すのは、おかしい様に思います。

それが仮に本人にとって建設的であっても
例えるなら
修練の最後の仕上げとして修行僧が悟りの為に洞窟で坐禅をくみ
餓死して即身仏と成るべく行う事を止めるべきでしょうか?
引きずり出しても止めるべきです。
「信仰の邪魔をするな」と仰るなら「これが私の信仰だ、邪魔をするな」と言います。

上記のように、単なる形而上の理論など言葉を変えれば
どうにでもなります。

やはり、死に隣接したり愛別離苦に嘆いたり
沢山の感情と経験に裏打ちされた言葉でなければ
複雑に絡み合う「命」に対していくら詭弁を叩きつけても
本質に届く事など出来ない様に思います。

ですので
理由も責任も不必要です。
誰かが負の感情にあうという理由も
生かされた後の責任を負う事も
全く関係なく、ただ止める事に
本来の人としての条件が含まれているのではないでしょうか。


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