悠久の謎  帰雲城 が消えた土石流

 

 近年、日本では 大規模な震災や台風の豪雨被害で膨大な犠牲が出ていますね。

 その同様の災害が 戦国時代の末頃にも発生し多くの人命が失われたそうです。

 

 

 ツーリング途中で 立ち寄った・・  

 この場所は、戦国時代の地殻変動による被災地。

 

 いまでは 幻となった 山城の埋没しているという悲劇のあった飛騨の国大野郡です。

 現在の地名で 岐阜県大野郡白川村、紅葉の美しい大自然の懐に残る奥深い山。

 

 400年ほど前になる天正年間、繁栄した帰雲城と城下三百軒が

 大地震で埋もれた史実。






  岐阜県内の 国道156号線  

  飛騨の山々を走る路線では、見落としがちですが。

 

  平瀬温泉 から・・ そう遠くない地点に幾つかの道標があることに

  気付かされます。





  ふと脳裏に触れるような・・ 誰かに呼びとめられたように   

  振り返り際に・・  風が。





  写真の左側にあるのが 現在の国道。   

  そして廃れた旧い石橋の名が 帰雲橋”でした。





  クルマ一台が通れるほどの幅員で 山肌からの谷川に架かる橋は、

  旧道の名残りです。 






  いかにも山岳らしい河川への支流であり、自然に近い風景でしょう。

  廃れた橋は、近代の工法でコンクリートなどの資材により作り直され。





  ずっと眺めていたくなるような・・水音が心にまで沁みてくるのです。





  豪雨の際には、水流も激しく岩を削るほどなのでしょう。









  標高は 1622メートルという山容を誇る 帰雲山 とは、

  岐阜県大野郡白川村にあります。



 


  飛騨の山地でも1500メートル級という 猿ヶ馬場山から西斜面に

  前衛となる山肌。


  見上げる山の山腹に、遥か昔の巨大な崩落を窺わせる険しい痕跡。

  陽の当たる側に抉るような山塊が崩落した傷痕を写真に撮りました。






  いまは 帰雲城” と記された新しい石碑が建てられる、

  この周辺が土石流で埋没した場所。

 

  正確な座標など 今後の調査が待たれるということで、

  泥の下に消滅した城の埋蔵金など数奇な運命で消えた城と

  城下の民人が眠る鎮魂の地であることは間違いなさそうです。





  天正十三年の大地震といえば、西暦1586年のこと。  

  今年で433年前。

 

  戦国時代に起きた地殻変動によるカタストロフィ について

  忘却していいはずがない。

 

  さて、碑文に記された過去の激甚災害を読み解こう。

 

  そもそも 帰雲城 (かえりくもじょう)とは、内ケ島氏が築いた

  山城を帰雲城 と呼んだ。

 

  永く繁栄したようで、内ヶ島氏一族と城下の民は 一世紀以上に

  渡り営みを続けます。

 

  乱世の群雄割拠が荒れ狂う時代に・・忽然と姿を消した幻の城。

 

   越後の上杉謙信公や羽柴秀吉などの武将が攻め込んだ飛騨国でありながら
   まるで 昔話しのように 戦に纏わる言い伝えすらないそうです。


 

 

 

  天正13年・・旧暦の11月 29日の深夜、北陸、東海、近畿地方の

  広範な地域が直下型の巨大地震に襲われるという事態となり、

  帰雲山 の山腹が大崩落したという。

 

  人が寝静まった時刻、逃げることも出来ず膨大な泥流の土砂が

  城下を埋め尽くした。

 

  城主と家族の命はおろか、家臣も麓町民の大部分が瞬時に

  飲み込まれた泥の地獄。

 

  戦乱の炎にすら焼かれぬ城下を破壊した天災の一部始終は夜陰に消え。

  僅かに難から逃れた人々の慟哭も時とともに失われ・・

  いまや城跡も定かでない。






  霊峰白山より沸き出でた雲を まるで押し返すが如く鎮座する 山懐を

    帰雲山と命名。

 

  武将(内ヶ島氏)の想いが蘇るような風景を 今も垣間見ることがあるだろう。

  それが災いしてしまう日が訪れるとは。

 

  暫く 白川峡ツーリングでも  この場所の存在など知らず通り過ぎていた。

  突如襲った悲劇に無念の苦しみや痛みと押し潰され消えた人々が残した何か

 

  偶然 バイク(馬)で走り去る自分の心深い琴線に触れたような気がする。

 

  霊感?だろうか、インスピレーションの不思議さよりも災害の恐ろしさ。

  古代から火山噴火の火砕流や洪水に泥流など 日本列島の自然は激しい

  一面を持つ。

  


 

 

  対岸となる 帰雲山を鎮めるように向かい合う位置、小高い場所に

  祀られる祠があります。





  帰り雲神社”  その由来は、昭和に 平瀬の地に住む田口 勇一氏と

  保木脇部落の有志が埋もれた先人御霊を弔うべく54年 11月に

  建立したそうです。

 

  一説には、噴火の火砕流で滅んだポンペイ遺跡に等しいとか、

  城主の埋蔵金伝説も。

 

  いつか、大規模な発掘調査が行なわれ 閉じられた歴史の謎が

  明らかになるでしょう。





  どうして自分は・・  ここに来たのだろう?  

  歴史の闇に忽然と消えた城と人々。

 

  すべては知らぬまま、彼らがとて知らぬまま絶命し 眠る地に訪れた私。

  美しい紅葉、それとは裏腹な地獄絵は・・どこまでも漆黒の沈黙にある。

 

  叫び声すら押し潰された人々の無念が遠い呼び声のように・・  

  招いたのかもしれない。





  見知らぬ者たちの虚しさ、失われてしまった後に 謎ばかりが遺される所以。

  このブログ記事を 書くことを望んでいるのだろうか。

  そして 無念の気持ちに添えられるのだろう、急に塵風のような天候の変化・・

  数奇な運命と言えば・・  私もそうなのだ。

 

 

  ゆっくりと砂利道から国道に・・バイクに跨ると スロットルを開けた。 

 

      アデュ・・

 

 

 

  晩秋の山間は 夕暮れ(かたわれ時)が早く訪れる。

  かつての災害では、この地で崩壊した土砂が庄川を長年堰き止めたそうだ。

 

  いまや発電用の鳩谷ダムが庄川水系の名物として美しいダム湖を形成する。

  過ぎ去った時代は戻らない。無念を感じる暇もなく亡くなった人も同じこと。

 

 

  大自然の微かな身震いは   戦よりも多くの生命を奪う災害となる。

  迫りくる災いの予兆、鳥達は飛び去り  城下の民には死相も現れたはず。

 

  霧のように幻視(みえ)る・・天守閣すらない砦のような山城、

  城下の集落に働く人たち。

 

  私は・・彼らに出会ったのだろうか?それを知る術こそ遠く失われてしまった。

 

 

 

 

 

 バイクで受ける風には もみじ 見知らぬ者たちのメッセージが宿るのかも もみじ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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