きょう4/13は、啄木忌なんだとか。1912(明治45)年、不遇と貧困のうちに27歳の若さで病没した、となっている。北海道は啄木との縁が深いということで、釧路では明日、地元文学館主催のイベントが開かれる。あれ?文学の街とかを自負する小樽や、歌碑や座像を建てて観光利用している函館では、何かないのだろうか?

 

 “不遇”とは「才能を持ちながらもめぐりあわせが悪くて世間に認められないこと。また、そのさま」、“めぐりあわせ”は「自然にめぐってくる運命。まわりあわせ」。(goo辞書)

 

 そうか、石川啄木は、めぐりあわせが悪かったのか‥。しかし、“不遇”だけではないような‥啄木は褒められていい人物なんかじゃないと、いつからか思うようになってしまった。教科書にこそ出ていたけれど、ロクデナシの生活破綻者という印象なのだ。

 

 なにせ、あちこちで借金作っては踏み倒しているし、知人らの支援に甘えっぱなしだし、中学の先輩である金田一京助センセイには援助を受けっぱなしで、さらに金を無心して服を質に入れさせたりと、不道徳でとてもお寺の息子に生まれたとは思えない。「はたらけどはたらけど猶(なお)わが生活(くらし)~」って‥どんだけ働いたねん?働いてねえだろう?というカンジ。

                   

 

 だから、盛岡市の啄木研究者で国際啄木学会の評議員を務める方が出版した著書を紹介した記事をみたときは、そうだろう、そうだろう、とひとり納得していた。

 1907年(明治40年)4月、啄木は堀合に紹介してもらった代用教員の仕事先の小学校で、校長排斥のストライキを決行。小林さんは当時の学校日誌などから「教員を続けたくないという思いだけで、ストライキに大義名分はなかった。堀合は、独り善がりの啄木を完全に見限り、娘との結婚を認めたことを後悔していたのではないか」と分析する。

道新デジタル 2024年2月7日 22:41

 

 それでも、天才ゆえか、北東北では総じて啄木に寛大な印象がある。青森で働いた当時、飲み会なんかでおそるおそる啄木の話題に触れてみたが、「でも、天才だよねー」とみな笑い飛ばしてしまい、秋田出身でも青森出身でも、だいたいが啄木には寛容なのだ。北東北の人は、天才に弱い!w

 

 北海道でも同じように寛容だろうか?明日釧路のイベントで対談予定の北畠立朴(りゅうぼく)釧路啄木会会長は過去に、啄木がわずか76日の釧路滞在でした借金は、今のお金なら170万円以上になると試算していたが、「まさに、はちゃめちゃです。あふれる才能と両極端。それがかえって、研究する意欲を沸かせるんです」と語っているから、やはり天才には寛容でいる気がする。

 

 そういえば、会長さんは北海道の方だが、ご先祖は浪岡北畠氏(なみおかきたばたけし)という、村上源氏の一族北畠家の流れを汲む陸奥の国司の一族に遡ると何かで読んだ気がするから、やはりDNAに北東北の寛容さが備わっているのかもしれない。

 

 ん?しかし前出の、啄木の実像を著した盛岡市の啄木研究者は寛容ではない?大丈夫‥この方、盛岡市に住んでおられるが、函館出身で、大学修了まで道内に住んでいた。だから、“北東北の人、天才に寛容説”はまだ成立している、とか強引にこじつけてみたw