函館市が観光大使名簿を非公表にして不適切と指摘された件は、その後に市長がマトモなことを言ったため、観光誘致課は一転してホームページ(HP)などで公表する方針を固めた。「今後も誰からも見える形での公表は考えない」からの‥手のひら返しw はこだて「隠密大使」に"違和感"の市長 フツーの感覚にござる | 玄冬シニアの心象日記 (ameblo.jp)

 

 どうせなら、新年度といわず1~2週間後の公表でもいいのでは?年度で区切るという行政の悪癖には、意味がない。改むるに憚ること勿れ、だろう。大使291人への通知ったって、チャッチャとやればすぐに済むわけだし、そもそも“隠密”自体が不適切なのだ。さて、公表までにいったい何人が大使辞退を申し出るのか、とても興味深いのう。

 

 ところで、函館観光についてはずっと以前から、「高田屋嘉兵衛」の存在が小さくて少し残念に感じている。

 

 200年ほど前の江戸時代後期、蝦夷地の経済の中心は城下町松前とニシン漁で栄えた江差だった。当時の箱館(函館)は人口3千人ほどの漁村だった。

 

 「高田屋嘉兵衛」は、淡路島出身で、船乗りになった後に廻船商人として箱館に進出し、そこを本拠地に大いに事業を展開した結果、箱館は港を中心に急速に発展した。

 

 また、大火で箱館市街の半分が焼失した際は、高田屋は被災者の救済活動と復興事業を率先して行ない、井戸の掘削や道路の改修、開墾・植林等も私財を投じて行ない、箱館の基盤整備事業を行った。

 

 エトロフ航路の開発や北方漁場の経営、江戸幕府の代理人としてロシアとの交渉に当たったことでも知られるが、箱館にとって「高田屋嘉兵衛」は、発展の礎を築いただけではなく、大火からの復興の大恩人でもある。

 

 その割には、函館観光において「高田屋嘉兵衛」の名を冠したものは、銅像と、民営の箱館高田屋嘉兵衛資料館(【休館中】らしい)と少しの史跡・顕彰碑しか見当たらない。北の豪商・高田屋嘉兵衛の足跡をたどる | モデルコース一覧 | はこぶら (hakobura.jp)

 

 函館市公式観光サイトには、函館に歴史を刻んだ偉人①として、マシュー・ペリーや新島襄の前に登場するが、大恩人を同列にしていること自体がどうなのか、函館人は感謝が足らんだろうとか思ってしまう。

 

 完全なひいき目でみるから、そう思うのだが、土方歳三や石川啄木のほうが大事にされているように感じられるのだ。観光大使制度の見直しを機に、この点も少し検討してみてはどうかのう。民営でも公設でも、せめて資料館ぐらいは常設運営できないものか‥。