法的な問題というのは、収支報告書の不記載と、キックバック資金の行方ではなかったか。昨年12月からこれまで、マスメディアといわれる類は新聞、テレビを筆頭に、こぞって地検が小出しにする情報に踊って、裏金問題とか派閥政治問題とか、風呂敷を広げるように問題を大きく散らかして喧伝してきた。

 

 それがここへきて、大山鳴動して鼠一匹の感、などと地検の一連の捜査に文句を言いだした。法的な問題からみて、それは初めから予想されていたことではないか。

 

 北海道新聞なんかは、今日の1面コラムでようやく「問題の本質は派閥の是非ではない。政治資金の不透明さこそ切り込むべき本丸だろう」と、わずかながらまともなことを書いた。

 

 一方、社説欄では「自民党派閥資金立件 尻尾切りでは済まされぬ」と、全ての派閥解消にこだわり、「「政治とカネ」の問題を断ち切るには、派閥の解消だけでは全く不十分だ。政治資金の不正な扱いを許さない法的な裏付けが欠かせない。」としている。派閥云々を挟むことなく、規正法の厳格化で対応することだが、広げてしまった大風呂敷をたたむのに苦労している。

 

 そもそもだが、人が3人いれば派閥が二つできるだろう。最小の社会単位といわれる家族が3人以上になったら、だれもが経験することだ。程度の差はあっても、会社にも学校にもお役所などにも、どのような組織にも派閥は存在している。政党には限らない。

 

 民主集中制とかいう政党が規約で派閥・分派を作らないことを明記しているのは、3人いれば派閥ができるという原理の裏返しだろう。しかし、そもそも民主主義国家で、自由が認められているからには、派閥そのものを否定することはできないのではないか?「結社の自由」は、民主主義的な政党内の自治を認め、干渉しない趣旨ではなかったか?

 

 そのむかし、「桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す」というのを習った。“トーリ”は俳優ではなく、MLBヤンキースの元監督でもない。桃やすもものことで、その桃やすももは何も言わないが、花や実を慕って人が多く集まるので、その下には自然に道ができる。徳望のある人のもとへは自然に人が集まることのたとえだ。これだって見方を変えれば、ひとつの派閥になる。

 

 

 

 さすがの麻生太郎閣下は、いつもながら物事の本質も原理も踏まえてらっしゃる。現下の情勢にも「麻生派を存続させる意向を岸田総理に伝えた」と報道されている。「麻生派に問題はない。派閥には議員育成の機能もあり、今回の問題は派閥ではなく、政治資金の扱い方だ」と話しています。」と、至極ごもっともであらせられる。

 

 3つの派閥が相次ぎ解散表明するという日和見は、ポピュリズムもはなはだしい。結果、麻生派などの対応が焦点とされているので、最終判断がどうなるか、注目させていただくしかない。