“人権”とか“正義”という文字がタトゥーのようにアタマの中に彫りこまれていて、このテの話になると自動的に“スイッチ”が入るだろうか。それにしても、“感想文”と言っては児童生徒に失礼なほど、不毛な内容である。

 

 まず、「悪意のない友人」を“言葉狩り”して悪者に仕立てる。そして、「置き換えて話す」などと妙な言い回しで時代先取りのふりをしているのは、気の毒なほど幼い。当面、“記者”などとは名乗らないほうがいい。

                         

 

 「悪意のない友人」の側からすれば、会話に誘導され“嵌められ”て、話のネタに“利用”されただけである。まあ、このテの話のだいたいは、こういったやり口から始まるんではないのか。利用する側に、十分悪意がある。

 

 悪意のない言葉に心がざわつくとか苦しむというなら、そうならないよう会話すればいいではないか。たとえば、「付き合っている人が―」で“ありふれた会話”を“させた”のは話し手の側だ。原因はそれだけでなく、その会話の前段、あるいは記者の日ごろの言動による可能性だってあるだろう。

 

 だから、“感想文”にあるような展開で苦しむという人は、「同性と付き合っているんだが―」と話し始めればいいだけで、何の問題もない。いくら友人との会話でも、イキナリそのようには切り出せないというのであれば、話す覚悟を決めてからすればいいだけのことだ。他責ではなく、自分の覚悟が必要だろう。

 

 「ウポポイ」をめぐる“マイクロアグレッション”という道新記事も同じだった。二人の職員が来場者から無意識の差別や偏見に基づく言動に悩まされていて、関係者が対策を訴えたということだったが、ウポポイは歴史・文化を学び伝えるのが役割、機能だから、職員は差別や偏見を解くためにそこで働いているんだという自身の覚悟は足りてるのか?と思いながら読んだ記憶がある。ウポポイを巡る道新記事の違和感 “マイクロアグレッション”と「大阪のおばちゃん」 | 玄冬シニアの心象日記 (ameblo.jp)

 

 きょうの記者は、おそらく社会へ出て年数の浅い若者であろう。経験を積みなさいな。だが、ポリコレ暴走したいなら非番の時にSNSでやってくれ、ということだ。購読者は、いびつな正義や偽善の紙面を買わされるのは不快で迷惑で、カネ返せ、とつぶやくことになるのだ。【日曜に書く】「ポリコレ」の嵐を防ぐのは 論説委員・川瀬弘至  - 産経ニュース (sankei.com)

 

 ちなみに、彼、彼女と言うなというなら、腹案を披露してみればいいではないか。相棒?相方?ツレ?partner?‥どのように言おうが、解釈は聞き手に委ねられるし、どう想像したとしても、それは聞き手の自由である。因縁をつけるのは見当違いだ。

モヤモヤする ACジャパンの全面広告 | 玄冬シニアの心象日記 (ameblo.jp)