「二上山」そして「明治の日」に関して | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

昨日、九月十三日午後、

昨年から本年初夏まで書き続けてきた

新刊書原稿の最終校正である第三校を終え、

昨日の午前に、太子町付近から撮影した二上山の映像を添えて

全原稿を神田神保町の展転社の相澤行一君に郵送した。

十一月三日の「明治節」・「明治の日」が近づく頃、

展転社から出版される。

新刊書の表題は、

「日本民族の叙事詩」

となる予定だ。

よって、

「叙事詩」の風景である「二上山」と

「叙事詩」の精神の故郷である

明治天皇の御代「明治の日」を記しておきたい。


昭和三十八年、今から六十年前の私が中学生の時、

近鉄藤井寺駅南側のスタート地点から

南の羽曳野市野々上にある野中寺付近までの

楕円形のコースを周回する

大阪中学校対抗駅伝競技大会があった。

私は、その駅伝大会に出場して

野中寺を右手に見て折り返す一番長い区間を走った。

そして、二位で折り返すとき、

正面の東南東方向に二上山があった。

苦しい息の中で眺めた二上山は、

まことに美しい神秘な山容だった。

その後、その山容をまた眺めたくて野中寺を訪れたが、

宅地開発で家が建ち並び,

遂に野中寺付近から二上山は見えなかった。


大阪府藤井寺市の大和川左岸近くの丘陵に

旧石器時代から中世に至る複合遺跡、国府遺跡がある。

二万数千年以上の驚くべき長期間、

現在人の先祖がそこに定住していた。

それ故、多くの埋葬人骨とサヌカイトで造られた石器群が発掘されている。

その国府遺跡から東南東に

中学生の駅伝の時に眺めた二上山があった(現在は新築住宅が建ち並び見えない)。

その二上山こそ、

国府遺跡の縄文人が遺したサヌカイト石器の原産地だ。

さらに、二上山のサヌカイトで造られた石器は、

古代の広範囲に広がる交通網の存在を証明するが如く

日本列島の北や南の各地の旧石器遺跡や縄文遺跡で見つかっている。


彼岸の日に、

大阪から眺めれば、

太陽は東の二上山の雄岳と雌岳の間から昇る。

大和の明日香から眺めれば、

太陽は西の二上山の雄岳と雌岳の間に没してゆく。

そして、二上山の雄岳の上には

古代の若き雄々しい二十四歳の英傑で、

 偽りの密告により処刑された、

天武天皇の皇子である大津皇子(おおつのみこ)が葬られている。

次の大津皇子の辞世の漢詩「臨終一絶」は、

二上山に没して行く太陽を見つつ、

処刑執行を告げる太鼓の音を聞いた時のものであろうか?


 金烏(太陽)西舎に臨み 鼓声 短命を催す

 泉路に賓主なく 此の夕べ 誰が家に向かう 


 萬葉集にある大津皇子の姉、

 大来皇女(おほくのひめみこ)の歌

  うつそみの 人なる我や 

  明日よりは

  二上山(ふたかみやま)を 

  弟(いろせ)と我が見む

また、

二上山の大阪側麓には聖徳太子の御自ら選ばれた墓所があり、

そこに叡福寺が建立され「上の太子」と呼ばれる。

その聖徳太子が幼い頃、

学問のために通われたのが野中寺で「中の太子」と呼ばれ、

成人された太子が物部守屋を打ち破った場所に建てられた寺院が

八尾の大聖勝軍寺であり「下の太子」と呼ばれている。

さらに、この時、

太子が物部守屋に勝つことができれば、

四天王を、お祀り申し上げると誓ったが故に、

大阪の天王寺に「四天王寺」が建立された。


以上、

二上山は、数万年昔から「日本人」が仰ぎ見る聖なる山なのだ。

よって、

「日本人の叙事詩」を記す新刊書に二上山の姿を載せたくて、

暑い本年の夏の日々、

大阪側の各所で二上山を撮影していた。

奈良からの二上山の写真は多くあるが、

大阪側からの写真はなかったからだ。


次に、「日本民族の叙事詩」を語る上で、

「昭和の日」と「明治の日」が不可分一体であることを記しておきたい。

そこで、まず、

我が新刊書を出版してくれる

展転社の創業者で会長の相澤宏明氏のことを語る。

相澤宏明氏は、国士である。

よって、宏明氏は、

昭和天皇の御崩御の後、

「戦後日本の政治」が

昭和天皇の御誕生日である四月二十九日を

「みどりの日」としたことを放置できず、

「昭和の日」回復の運動を開始された。

即ち、

昭和天皇の御誕生日として

国民が、戦前の日々から未曾有の敗戦を経た戦後の辛い日々においても、

変わることなくお祝いしてきた

「昭和天皇の御誕生日」を、

何の歴史的意味も無い「みどりの日」とは何事か!?

我が国の戦後政治と官僚組織は、

日本民族から歴史の記憶を奪うのか!と。

そして、国会で最初に

「昭和の日」の復元を訴えたのは私西村だった。

そして、長年月を要したが、「昭和の日」が実現した。


そこで、相澤宏明氏は、「昭和の日」で止まらず、

なをも、「日本民族の叙事詩」を形作る

歴史的記憶回復の運動を続けられる。

即ち、現在の日本は、

明治の日本が苦闘を克服したからこそ存在するのだ。

その偉大な明治の御代を率いられた

明治天皇の御誕生日である十一月三日を

「文化の日」とは何事か?!と。

これ、GHQによる

占領下に為された民族の歴史的記憶を奪う所業である!

よって、十一月三日の明治天皇の御誕生日を

「明治の日」として民族の記憶を回復すべきだ!

と相澤宏明氏は行動を開始した。

そして、

国会で初めて「明治の日」制定の質問をしたのは、

千葉県の田沼隆志衆議院議員である(現、千葉県議会議員)。


明治と昭和は,

日本民族の叙事詩において不可分なのだ。

昭和天皇が、昭和二十年八月十五日の敗戦後、

初め迎えた正月元旦である昭和二十一年一月一日に発せられた

「年頭、國運振興の詔書」の冒頭に掲げられたのは、

明治天皇が、

明治の御代が始まる明治元年三月十四日に発せられた

「五箇條の御誓文」

そのものであったことを深思すべきである。


この相澤宏明氏創業の展転社から、

我が新刊本が出版されることになった。

展転社で、

その編集・出版を担当してくれているのは、

長らく西村の秘書をしてくれた

宏明氏の長男相澤行一君だ。

十一月三日の「明治の日」が迫る頃、

出版されれば、諸兄姉のご一読をお願いいたします。


西村眞悟FBより

日本日本日本



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