先ほどテレビを見ていて感じたこと
昨今、我が国のマスコミは、
「欧米の外国」における「LGBTQ+」に関する
派手で、猛烈で、えげつない化粧をした人々の集会やデモの映像を流して、
彼らの主張に理解を示すべきである、
という角度から報道するようになった。
この報道姿勢には、いつも通りの
「欧米」はここまで来ている。
「日本」もこういうデモがあってもよいのではないか。
という方向に世論を導こうとする
「進歩的なマスコミの癖」が見て取れる。
従って、
このままでは、
かつての大学紛争当時のように、
我が国のある都会の一角で、
欧米の真似をして、
えげつない化粧をした数名の若者が
「LGBTQ+を認めよ!」とマイクで歩行者に訴えると、
それをマスコミが待ってましたとばかり報道して
全国的に広がる、
という「現象」が始まっても不思議ではない。
そこで、
「LGBTQ+」というローマ字で表記され
決して日本語で表記されない「あの現象」について
一言述べておきたい。
欧米で起こっている「あの現象」は、
欧米特有の「歴史的観念」が生み出す「病理現象」である。
その歴史的観念とは、
「社会は自由な人々(個人Individual)の契約によって出来上がっている」
という十九世紀の「社会契約説と呼ばれるフィクション」だ。
このフィクションによると
「自由な個人」の契約によって社会ができているのであるから、
「男」であるか「女」であるかを決めるのも
「個人」でなければならない。
そして、その「個人」は
社会を成り立たせている「単位」であるから
尊重されねばならない。
彼らは、こういう歴史的観念に振り回されて
「革命」を正当化し人類の惨害を生み出してきた。
そして、現在、
この歴史的観念に由来する欧米の病理現象が
「LGBTQ+」である。
これに対して、
我が日本には、
このような歴史的観念(フィクション)は無い。
日本においては、
山野、自然の草木が斯くある如く、
人も斯くある。
古事記の
伊耶那岐神と伊耶那美神の國生みの神話の表現で言うならば、
下半身に
「一箇所だけでっぱっているものがぶら下がっている」
のが男で、
「一箇所だけくぼんでいる穴がある」
のが女である。
そして、
宇佐八幡の神勅の通り、
我が国開闢以来、天皇陛下がおられる國が日本である。