「戦争に勝った」日本 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

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大東亜戦争すなわち第二次世界大戦において、

人類のあるべき理念を掲げて勝利したのは

日本である。


大東亜戦争において、十日間でジャワ島を制圧し、

終戦まで赤道直下の

ニューブリテン島の要衝ラバウルを守り通した

第八方面軍司令官今村均大將は、次の通り明言された。


戦争の勝利とは戦争目的を達成することであり、

相手を屈服させることではない。


そこで、大東亜戦争において、

我が国は何を宣言したのかを確認する。

次は、我が国が世界に宣言して実践した戦争目的である。

この文章の格調から、

この「声明」と「宣言」は、

神武天皇の

「八紘為宇」の御志に発することを直感して頂きたい。


(1)「帝国政府声明」 昭和十六年十二月八日

而して、今次帝國が南方諸地域に対し、

新たに行動を起こすの已むを得ざるに至る、

何等その住民に対して敵意を有するにあらず、

只米英の暴政を廃除して

東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を頒たんと翼念するに外ならず、

帝國は之等住民が、我が真意を諒解し、

帝國と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり、

今や皇國の隆替、東亜の興廃は此の一挙に懸れり


(2)「大東亜共同宣言」 昭和十八年十一月六日

署名者 

日本 東條英機内閣総理大臣、

中国 汪兆銘国民政府行政院長、

タイ ワンワイタヤコーン親王、

満州 張景恵国務総理大臣、

フィリピン ホセ・ラウレル大統領、

ビルマ バーモー内閣総理大臣、

インド チャンドラ・ボース首班

抑々世界各国が各其の所を得、相倚り相扶けて萬邦共栄の楽を偕にするは、

世界平和確立の根本義なり、

然るに米英は自国の繁栄の為には、他国家他民族を抑圧し、

特に大東亜に対しては、飽くなき侵略搾取を行ひ、大東亜隷属の野望を逞うし、

遂には大東亜の安定を根柢より覆さんとせり、

大東亜戦争の原因茲に存す。

大東亜各国は、相提携して大東亜戦争を完遂し

大東亜を米英の桎梏より解放して其の自存自衛を全うし、

左の綱領に基き大東亜を建設して以て世界平和の確立に寄與せんことを期す

一、 大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、

道義に基づく共存共栄の秩序を建設す

一、 大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を拳げ、

大東亜の和親を確立す

一、 大東亜各国は、相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸暢し

大東亜の文化を昴揚す

一、 大東亜各国は、互恵の下、緊密に提携し其の経済発展を図り

大東亜の繁栄を増進す

一、大東亜各国は、萬邦との交誼を篤うし、人種的差別を撤廃し、普く文化を交流し、 

進んで資源を開放し、以て世界の進運に貢献す


日本軍は、「帝國政府声明」発出と同時に、

「南方諸地域」において行動を開始し、

第25軍(司令官 山下奉文中将)は、

北のシンゴラとコタバルから

イギリスの支配するマレー半島を一挙に南下し、

昭和十七年二月十五日にシンガポールを攻略した。

開戦から、たった七十日間のことである。


このシンガポール陥落を、

フランスのド・ゴール将軍は、

「数百年にわたる白人によるアジア支配の終焉」

という世界史の転換だと捉えた。

シンガポール陥落の前日の十四日、

第16軍(司令官 今村均中将)は、

スマトラ島のパレンバンを占領して必需物資の石油を確保し、

三月には十日間で

九万三千人のオランダ軍を降伏させてジャワを制圧した。

さらに、第15軍は

イギリス領ビルマを制圧し、

第14軍はフィリピンを支配するアメリカ軍を制圧した。

この時、司令官のマッカーサーは

数万の部下を残しフィリピンからオーストラリアに逃亡した。


以上の我が国の、アジア「南方諸地域」における軍事行動は、

「帝国政府声明」に掲げた

「只米英の暴政を廃除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を頒たん」

が為である。

したがって、我が国は、

さらに、アジアにおける広大なイギリスの植民地である

インド独立運動の中心的人物でドイツに亡命しているチャンドラ・ボースに注目し、

インドと連携して、

さらに「共栄の楽を頒たん」と欲した。

チャンドラ・ボースも、

アジアにおける我が国の行動に目を見張った。

そして、来日する。

即ち、チャンドラ・ボースは、

昭和十八年二月八日、フランスのブレスト港で

ドイツ軍のUボートに乗り込んでインド洋に向かう。

同時に、東から

日本海軍の伊号第29潜水艦が、マダガスカル南東沖に向かった。

そして、両潜水艦は四月二十六日、マダガスカル南東沖で接舷した。

チャンドラ・ボースは、

Uボートから我が伊号潜水艦に乗り移って、

五月六日、スマトラ島に到着し、

そこから日本軍機で五月十六日に東京に到着した。


東京でチャンドラ・ボースは、インド独立の同志達と会い、

インド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任する。

その後、彼は、十月二十一日に、

シンガポールにおいて自由インド仮政府の首班に就任し、

十一月に東京で行われる大東亜会議に出席し、

十一月六日に、我が国の国会議事堂で前記「大東亜共同宣言」に署名する。


この大東亜会議は、

我が国が、

「帝国政府声明」で宣言した通り、南方諸地域において

軍事力によって米英蘭の植民地支配者を打倒したことによって

自由になった諸民族の代表が参加した

史上初めての有色人種による国際会議である。

そして、この会議で署名された「大東亜共同宣言」こそは、

人種差別をなくし植民地からの解放と諸民族の共存共栄を謳う、

現在の人種差別と植民地支配がない世界を生み出す宣言である。

よって、

この現在の世界を生み出すために戦った我が国は、

「戦争目的を達成した」

即ち「戦争に勝った」のだ。


ところが、この現在の世界では、

一九四一年八月十四日に、

アメリカのF・ルーズベルト大統領と

イギリスのW・チャーチル首相が、

カナダのニューファンドランド沖で発した「大西洋憲章」が、

第二次世界大戦後の世界秩序を宣言したものとされている。

しかし、これは「戦後の虚妄」である。

第一、 

この「大西洋憲章」には

署名がないし、表題もなかった。

よって、これは怪文書である。

後に、あるマスコミが

報道する際に「大西洋憲章」という題をつけただけだ。

また、内容においても、

彼ら二人は、

アジア・アフリカにおける

人種差別撤廃と植民地支配の終結を宣言した訳ではない。

ただ、ナチスドイツに支配された

ヨーロッパの解放を謳っただけだ。

しかも、その結果は、「解放」の正反対に終わった。

即ち、東欧の諸民族を、

ヒトラーよりさらに残忍な

スターリンの独裁支配下に移しただけであった。


このチャーチル・ルーズベルト両首脳の会見の真の目的は、

「戦争の謀議」にあったのだ。

その「戦争の謀議」とは、

一九三九年九月一日にポーランドに軍事侵攻したドイツに対して

イギリスとフランスが宣戦を布告して始まった

「欧州の戦争」に、

参戦しないと公約して

一九四〇年十一月のアメリカ大統領選挙に勝利し

一九四一年に三期目の大統領に就任したF・ルーズベルトが、

「公約違反と非難されることなく参戦する方策」

の謀議である。

それは、

「裏口からの参戦」

「Back Door To The War」

即ち、アメリカは、

まず太平洋(Back Door)で

日本との戦争に入り、

その上で日本の同盟国の

ドイツとの欧州の戦争(The War)に入る、

という謀議である。


西村眞悟FBより

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