大東亜戰争と八紘為宇 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

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 大東亜戦争の世界史的意義と

近現代における我が国の

世界史に刻まれた「八紘為宇」の系譜


我が国が、大東亜戦争の開戦時に発した

「帝国政府声明」と、

戦争遂行中に開会された有色人種による世界史上初めての国際会議である大東亜会議にて発せられた

「大東亜共同宣言」(昭和十八年十一月六日)に掲げられた

「人種差別撤廃」と「諸民族の共存共栄」は、

共に現在の世界の理念である。


則ち、大東亜戦争において、

文明の転換が起こり、

欧米の数百年にわたる

人種差別とアジア・アフリカにおける植民地支配の時代は終焉を迎えた。

よって、我が国は、

大東亜戦争の戦闘では敗れたが、

戦争では勝利したのだ。

そこで、まず、

この帝国政府声明と大東亜共同宣言の要旨を次に掲げる。


<帝国政府声明>「今次帝國が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすの已むを得ざるに至る、何等その住民に対し敵意を有するにあらず、只米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を頒たんとするに外ならず。」

 

<大東亜共同宣言>「抑々世界各国が各其の所を得、相倚り相扶けて萬邦共栄の楽を偕にするは、世界平和確立の根本義なり。・・・大東亜各国は、萬邦との交誼を篤うし、人種的差別を撤廃し、普く文化を交流し、進んで資源を開放し、以て世界の進運に貢献す。」


以上の通り、今や世界の文明の理念となったこの

帝国政府声明と大東亜共同宣言の

因って来たるところを振り返ったとき、

私は神武天皇が御創業の際に掲げられた

「八紘為宇」の志に行き着き、

深い感慨とともに、

この日本に生まれた幸せを感じる。

そして同時に、

日本は、明治維新によって世界史に参入してから、

一貫してこの世界史の舞台において

八紘為宇の理念の実践者であったとの思いを深めるのだ。

よって、

その実践の系譜を次に記しておきたい。


(一) 明治三年、西郷隆盛は

遙か庄内から薩摩に来た酒井忠篤らに言った(西郷南洲遺訓)。

「文明とは道の普く行はるゝを賞賛する言にして、

宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華をいうふには非ず。

世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些とも分からぬぞ。

予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢやと云いしかば、否な文明ぞと争ふ。

否な野蛮ぢやと畳みかけしに、

何とてそれ程に申すにやと推せしゆゑ、

実に文明ならば、未開の國に対しなば、

慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、

左は無くして未開蒙昧の国に対する程

むごく残忍の事を致し己を利するは野蛮ぢやと申せしかば、

其の人口を窄めて言無かりき、とて笑はれける。」


つまり西郷は、

八紘為宇の志は、

ただ日本に留まらず他国、他民族にも及ぶと言っている。

この西郷の思いを基に、

三年後のいわゆる征韓論に関する政争の真相は、

世評とは異なり

西郷は軍を朝鮮に出さずに、自分が一人で朝鮮に出向き

誠心誠意の我が真意を伝える努力を尽くす所存であったと思われる。

しかし、西郷の死後、

西郷は朝鮮武力侵攻の急先鋒の如く伝えられたのは、

栄達した軽薄な者達のずるい作為であろう。


(二) マリア・ルス号事件

ペルー船籍船マリア・ルス号は、

明治五年七月、マカオから二百三十一人の清国人奴隷を乗せて

横浜港に入港した。

その時、数人の奴隷が脱走して救助を求めた。

それを察知した外務卿副島種臣は、

人道主義と日本の主権を主張して、

神奈川県令の大江卓に清国人救助を命じた。

大江県令は、まずマリア・ルス号の出港を停止し、

清国人奴隷解放を条件にマリア・ルス号に出港許可を与えた。

この事件は、後に

ロシア帝国による国際仲裁裁判所に持ち込まれ、

我が国は始めて国際裁判の当事者となった。

全権公使は榎本武揚。

裁判長となったロシア皇帝アレキサンドル二世は、

ペルーの日本に対する補償金の支払い要求を退けた。


この事件は、奴隷を当然とする西洋文明に対する

人道主義を掲げた日本の画期的な異議申し立てである。

この時、

岩倉具視を代表として大久保利通や木戸孝允等さらに伊藤博文は

百九名の訪欧使節団を編成して欧州を回っており、

日本政府の首班は西郷隆盛であった。

岩倉訪欧団は、

全国三百の藩を県にして、それを現在の都道府県に編成して

日本を中央集権的近代国家へと変革する

廃藩置県の大切な時期に、

約二年間日本を離れて欧米を廻っていたのだ。

その時、

実質的に廃藩置県という難事業を遂行したのは

西郷隆盛である。

これが、却って日本の為によかったのであろう。

無私無欲の人でなければ、

この難事業は遂行できないからである。

帰国後、彼ら訪欧団は、次のように謳われた。

「条約は、結び損ない、金は捨て、世間に対し、何といわくら」


なお。外務卿副島種臣は、

気骨のある武士であり、

当時、欧米外交団が、清国皇帝の前で

三跪九拝の礼(跪いて三回頭を下げる動作を三回繰り返す)をしていたのに対し、

平然と、直立して一礼をする動作を一回するだけで済ました誇り高い男であった。

そして、欧米外交団から賞賛された。


(三)シベリアからロシア人少年少女八百名

   と、ポーランド孤児七百六十五名の救出


第一次世界大戦中の一九一七年(大正六年)、

ロシアのサンクトペテルブルクでロシア革命が勃発し、

ボルシェビキの赤軍と反ボルシェビキの白軍の

武力衝突が始まり、それが内戦となって全土に広がりはじめた。

この時、日本は、

内戦で孤立したロシアの子供達八百人と、

ポーランドの孤児達七百六十五名を、

ウラジオストックから船に乗せて

それぞれの郷里に送り届けたのだ。


まず一九一八年(大正七年)五月、

内戦の坩堝となったペテルスブルクから

八百九十五人のロシア人少年少女が、ウラルに疎開した。

しかし、内戦の広がりにより、

ウラルに疎開したペテルスブルクの子供達も孤立して、

「ウラル山中をさ迷う子供達」となった。

しかし、アメリカを中心とする救援組織によって、

翌一九一九年九月、

彼らはウラルから六千キロのシベリアを横断して

ウラジオストックに運ばれ、安全な施設に収容された。


また、シベリアには十九世紀から

帝政ロシアによって流刑され、

また、強制連行された二十万人ほどのポーランド人がいたが、

彼らも内戦によって

荒野を彷徨うなかで餓死、病死そして凍死していった。

そしてシベリアに

孤立した七百六十五人のポーランド孤児が残された。

この時、シベリアに出兵していた欧米の部隊は既に撤収し、

日本軍だけが残留して赤軍から街を守っていたので

ウラジオストック在住のポーランド人は、

代表者を東京に派遣して

日本政府にポーランド孤児の救出を懇願した。

この救助要請に応じて、

日本赤十字と在シベリア日本軍部隊は、

この孤児達を

シベリアから安全にウラジオストックに移動させて保護した。

その後、

ロシア人の子供達をウラジオストックから祖国に帰すためには、

機雷の敷設された危険な海域を通ることになるので、

アメリカを含む各国の船会社がことごとく断るなかで、

ただ日本の勝田銀治郎(後の神戸市長)が所有する

陽明丸(船長、茅原基治)だけが

敢然とロシアの子供達を祖国に帰す任務を引き受けて

ウラジオストックに入港し、

八百名のロシアの少年少女を乗せて

太平洋からパナマ運河を経て大西洋を渡って

機雷の多く浮かぶバルト海域に入り、

一九二〇年十月十日、

フィンランドのコイスビスト港(現ロシア領)に到着して、

子供達は郷里のサンクトペレルブルクの

父母の元に帰っていった。

この壮挙は、不思議にも日本側では

茅原船長の遺した手記

「赤色革命余話 露西亜小児団輸送記」しかないが、

ロシアには、助かった子供達の孫が

「ウラルの子供達の子孫の会」をつくり、

その代表の孫のオルガ・モルキナさんが、

近年、探し当てた

岡山県笠岡市の茅原基治船長の墓に参っている。


オルガ・モルキナさんは、

幼い頃、祖父母から子供時代に経験した驚くべき冒険潭を、

いつも聞かされ、

そのなかで、深い感謝の念をもって語られる

「カヤハラ船長」を、

驚くべき冒険潭の凜々しい英雄のように思っていた。

そして、

「ヨウメイマル」、「カヤハラ船長」

という二つの手がかりで

この冒険譚の真実を探していた。

その時、ペテルブルクに個展開催の為に訪れていていた

日本人の北室南苑さんに巡り会い、

日本の「ヨウメイマル」と「カヤハラ船長」を

探して欲しいと頼んだ。

そして、一年半後に、

北室南苑さんから、「カヤハラ船長発見」の知らせを受け、

岡山県笠岡市にある

「茅原基治船長」のお墓に参ることができた。

この英雄潭は、

北室南苑編著

「陽明丸と800人の子供達・日露米をつなぐ奇跡の救出作戦」並木書房

で明らかにされている。


次に、ポーランドの孤児達七百六十五人も、

ウラジオストックから、計五回の船で日本の敦賀港に着き、

東京の渋谷と大阪の天王寺に用意された宿舎に入り、

病気の者は、赤十字の医師と看護婦の献身的な治療を受け、

また全員たっぷりと食べて体力を回復した。

看護婦さんは、

幼い孤児達を抱いて添い寝を続けたという。

日本にチフスが流行り、孤児達にも感染者がでた時も

その子に添い寝を続けた看護婦の一人は、

チフスに罹患して殉職している。


東京に来た子供達(十六歳~四歳)は、

行啓された貞明皇后の激励を受け

優しく頭をなでられ激励された。

大阪に来た子供達(十五歳以下)は、

近くの天王寺動物園で遊んだことを生涯忘れなかった。

彼らは、シベリアの荒野しか知らず、

日本で始めて暖かい人の情に包まれたのだった。


そして、孤児達は、

横浜港と神戸港から船に乗りポーランドに向けて帰るとき、

「もっと、ここにいたい」と多くの子は泣いた。

そして、出航前に、

大声で「ありがとう」、「さようなら」と繰り返し叫び、

最期に、「君が代」と「ポーランド国歌」を歌った。


ポーランドに帰っても、

彼らは孤児であり父母も帰る家もなかった。

そこで、日本政府も協力して、

彼らが住む施設(孤児院)が建てられた。

彼らがポーランドに帰った翌年(一九二一年)、

ポーランドは独立した。

彼らは、ポーランドを学ぶと共に、

「日本への感謝を忘れるな」を合い言葉にして

「日本の歌」を歌い継いだ。

そして、成長した孤児達は「極東青年会」を設立した。


一九三九年、ドイツがポーランドに侵攻した。

そして、ナチスが、孤児達にレジスタン運動の嫌疑をかけて

ドイツ軍が孤児院の捜索に入ってきた。

その時、日本大使館から領事が駆けつけ、

「ここは日本の管理下にある孤児院である!」

とドイツ軍に告げた。

すると、孤児達は、整列して、

日本の国歌「君が代」を大声で合唱した。

ドイツ軍と指揮官は、呆気にとられて引き上げていった。


現在、ポーランド政府は、

阪神淡路大震災では日本の孤児六十名を、

東日本大震災では日本の孤児三十名を、

ポーランドに招待してくれた。

その時、

かつてシベリアから救出され、老人となった孤児達が

日本の震災孤児を慰め、激励するために会いに来てくれた。

しかし、二〇一一年の東日本大震災の時、

日本の孤児に会いにこられたポーランドの元孤児は

四名に減っていたという。


その九年前の平成十四年(二〇〇二年)、

天皇皇后両陛下がポーランドに行幸啓された際、

ワルシャワの日本大使公邸でのレセプションに、

九十二歳と九十一歳と八十六歳の

元シベリアの孤児が招待されていた。

その時、公邸に入られた両陛下は、

真っ先に三人の元孤児達に歩み寄られ、

手を取られて、

「お元気でしたか」と、

しみじみと言われた。


(四)樋口季一郎ハルピン特務機関長と関東軍と満鉄、

   二万人のユダヤ人を救出せり!

昭和十三年一月、

ハルピンでユダヤ人会のカウフマン博士等が企画した

第一回極東ユダヤ人大会が開催され二千人のユダヤ人が集まった。

演壇に立った樋口季一郎ハルピン特務機関長は、

「ドイツがユダヤ人を追放せんんとするならば、

その行き先を明示し、予めそれを準備せよ。

それをせずして追放するとは

刃をくわえざる虐殺に等しい」

と演説し、

後に記者の質問に答えて、

「日本人は昔から、義を以て弱きを助ける気質をもっているのだ」と答えた。


同年三月八日、

樋口特務機関長は、カウフマン博士から、

「ソ満国境の駅オトポールで

二万人の欧州から逃げてきた

毛布ももたない着の身着のままのユダヤ人が

満州に入れず立ち往生をしている。

このまま放置すれば全員凍死する。助けて欲しい。」

との懇願を受ける。

これに対して、

樋口特務機関長は、直ちに決断し、

まず満鉄の松岡洋右総裁に会い、

特別列車と毛布と食料の用意を頼み、松岡総裁は快諾した。

そして、三月十二日、

ハルピン駅に

オトポール駅から

二万人のユダヤ難民を乗せた特別列車が到着し、

彼らは、商工クラブや学校に収容され炊き出しをうけた。

凍死者十数名、凍傷者二十数名に止まった。

もし、極寒の満州における救出が数日遅れたならば、

二万人全員が凍死していたであろう。


この日本の関東軍と満鉄によるユダヤ人救出に対し、

ドイツのリッペントロップ外相から

日本政府に対して抗議があった。

これに対して、東条英機関東軍参謀長は、

「人道上当然のことである。我が国はドイツの属国ではない」

と言い放ち、

我が国の閣議も「八紘為宇の精神に基づくこと」とした。


現在に於いても、人の基本的人権の思想は

ヨーロッパから生まれたと言われている。

また、

キリスト教は博愛の教えを説くと言われている。

しかし、この時、

国家として

ユダヤ人を救出したのは日本国だけである。

キリスト教会は救出していない。


なお、当時日本はドイツと同盟関係にあったので、

オトポールから何人のユダヤ人を救出したのかは

ドイツに配慮して公表されていない。

しかし、ヨーロッパのユダヤ人界では、

ナチスからの脱出ルートとしての

「ヒグチ・ルート」の名は普く知られていた。

よって、

「ヒグチ・ルート」によって救出されたユダヤ人の総数は

二万人では止まらないと思われる。


私は、十年前にイスラエルのエルサレムで、

七歳の時に両親と共に

「ヒグチ・ルート」でナチの迫害を逃れた女性に会った。

マサドのアドモニ元長官の奥さんで

ニーナさんという美しい老婦人だった。

彼女は、七歳の時、両親と共に船に乗って

日本の敦賀港に着き、

神戸に移動して暖かく保護された、と語り始めた。

日本の人々に親切にしてもらった、

と語り続ける彼女の美しい目に涙が溜まっていた。


なお、近年、

「ヒグチ・ルート」で

ナチスの魔の手から脱出したユダヤ人の多くが、

満鉄の準備した臨時列車で

「上海のイギリス租界」に入ったことを以て、

「ユダヤ人を救出したのは、中国である」

と中共政府が言い始めた。

そして、

繰り返し国際社会で吹聴するようになった時、

イスラエル政府が、

敢然として、ぴしゃりと断言した。

「それは、違う。中共ではない。

ユダヤ人を救出してくれたのは、日本である!」

と。

以後、中共政府は沈黙した。


西村眞悟FBより


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