日露対馬沖海戦118周年記念慰霊祭 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

美味しいものに出会うが食べ過ぎる


五月二十七日は対馬の北にいた。

その前後各五時間、合計十時間は海の上だった。

乗船前は、台風が接近しているので玄界灘が荒れるぞ、

と楽しみだった。

満州に生まれ、陸軍幼年学校に入学するために本土に入るとき、

玄界灘が荒れて嬉しかったと、

高校時代の恩師の格さんが言っていたのを思い出したからだ。

しかし、この度、玄界灘は鏡のようで荒れなかった。


令和五年五月二十七日は、

日露戦争に於ける日本の命運を決する大海戦となった

東郷平八郎司令長官指揮する我が連合艦隊と

ジノブィー・ロジェストウェンスキー司令長官指揮するロシアのバルチック艦隊が

対馬沖で激突した日本海海戦から百十八年を閲する日である。

よって、この日、

遙か海戦海域を見渡せる上対馬町西泊の

海に突き出た殿崎の丘において、

「日露対馬沖海戦118周年記念慰霊祭」

が神式で行われた。


この殿崎には、

海戦で沈没したロシア巡洋艦ウラジミル・モノマフから

四隻のボートに乗って脱出した

百四十三名のロシア水兵が漂着した。

丘の上で農作業中に彼ら漂着したロシア兵に遭遇した

地元西泊の二人の農婦、

安心院(あじみ)シゲと犬束(いぬづか)ナカは、

彼らロシア兵の多くが、

負傷し、疲労困憊で、喉が渇いているのを知り、

岬の付け根に湧き出ている泉に連れて行った。

その泉の水を飲んだロシア兵達は

命をもらったように笑顔を取り戻した。

そして、彼らロシア兵は、

西泊の村民の家に分宿して介抱された。

後にその話を知った連合艦隊司令長官東郷平八郎は、

村民の敵を慈しむ心に感動して

色紙に「恩海義嶠」(めぐみの海 義はたかし)と書き、

明治四十四年には、「恩海義嶠」と刻んだ石碑が

遭難したロシア兵に命を与えた泉の上の殿崎の丘に建てられた。

この度の、

この殿崎の丘で行われた日露対馬沖海戦記念祭は、

地元対馬の武末裕雄氏ら多くの有志によって、

戦後は、雑草に埋もれるままになっていた

この東郷平八郎の「恩海義嶠」の碑を

雑草の中から掘り出して丘を整備したうえで、

丘の上に、日露海戦に於いて戦死した

約五千名のロシア軍兵士と百十七名の日本軍兵士

両軍全員の名前を銅板に刻んだ慰霊碑を建てた上で

十八年前の海戦百周年から始まった。

その時、比田勝の武末裕雄氏は

慰霊碑に向かう道の入り口に、

横十メートル、縦五メートルの

東洋一のブロンズのレリーフを建てた。

そこには、

佐世保の海軍病院に負傷して入院している

バルチック艦隊のロジェストウェンスキー司令長官を見舞う

連合艦隊の東郷平八郎司令長官と幕僚達の姿が彫られている。

この殿崎にある

レリーフも

両軍全戦没者の名を刻んだ慰霊碑も

「恩海義嶠」の碑も

明治天皇の御製

 國の為 仇なす敵は 砕くとも 慈しむ心 な忘れそ

の御心を体現したものである。


このようにして始まった慰霊祭には、

対馬駐屯の陸海空自衛隊の各指令と幕僚が出席する。

そして、

参加者全員が、遙か海戦海域に向かって正対し、

「海ゆかば」を二回斉唱する。

対馬市は、「海ゆかば」という軍国主義の歌を歌うなら出席しないと言って

出席を拒否したことがあった。

その時も、参加者は、

「阿呆の出席は必要なし」として「海ゆかば」を歌い続けた。


私も海戦百周年の前々年から、

五月二十七日には対馬に入り、百周年の準備に参加し、

この慰霊祭が始まってから出席を続けてきた。

一八〇五年一〇月二一日のトラファルガー海戦に関しては、

イギリスは

女王陛下がお召艦に乗船されて海戦勝利を祝っている。

我が国も、

トラファルガー海戦以上に世界史を転換させた

一九〇五年五月二七日の対馬沖海戦勝利を

国家として堂々と祝うべきだ!

これが私の持論である。


我が国は、

人類史を転換させた日露戦争の明治三十八年における

三月十日の奉天大会戦勝利の「陸軍記念日」と

五月二十七日の対馬沖海戦勝利の「海軍記念日」を

国家の記念日として復活させねばならない。

これが、

「日本を取り戻す」ことであり

「戦後体制からの脱却」である。


西村眞悟FBより

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