眠り・昏睡から醒めよ!大田寶海軍中将・訣別電報と辞世 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

「戦後体制という昏睡」から醒めよ!

近現代において、
我ら日本民族は二回の「太平の眠り」を経験した。
「眠り」とは眠っている最中に自覚できるものではない。
眠りから覚めたときに「眠っていた」と自覚できる。
では、その「太平の眠り」を自覚したのは何時だったのか?
 
第一回目は、嘉永六年(一八五三年)七月八日、
アメリカ海軍のペリー提督率いる煙突から真っ黒い煙を上げて
眼前の江戸湾海上を進む二隻の蒸気船と二隻の帆船からなる
アメリカ海軍東インド艦隊が、
舷側から合計七十六門の砲弾を装填した大砲を突き出して
臨戦態勢で浦和沖まで進入して、
そこに旗艦「サセケハナ」を投錨させた時だ。

この時、江戸庶民は、
驚きを以て眺めた眼前の黒い煙を吐く「蒸気船」を、
上等のお茶である「上喜撰」に喩えて
「太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四盃で夜も眠られず」
と詠んだ。

この歌は、徳川幕府の、
二百年以上にわたる鎖国の中に生きていた日本人の
驚くべき民度の高さを示すものと言える。
江戸の人々は、
初めて黒い煙を吐く蒸気船を目の辺りに見ただけで、
自分たちは今まで眠っていた、と自覚したからだ。
よって、ここから「幕末」が始まる。
即ち、我が国は、「王政復古の大號令」の冒頭にある
「癸(みずのと)丑(うし)(嘉永六年)以来、未曾有之國難」
を経て、十五年後の明治維新に至ることになる。
当然、この明治維新は、
「未曾有之國難」を克服するための、
日本の生存をかけた「復古という改革」であった。
しかもこれは、
現在の世界を動かす重要な、まさに世界史の「転機」となった。
このことを、
日本人よりアメリカ人が、自覚しているようだ。
赤坂にある駐日アメリカ大使館の客間には、
ペリーの乗船していた旗艦「サスケハナ」の
立派で大きな模型が飾られているからだ。

では、第二回目の「太平の眠り」とは、何時であるか?
また、日本人は、覚醒したのか?
令和四年(二〇二二年)、二月二十四日に、
ロシアのプーチン大統領が、
ウクライナの北と東と南から戦車と戦闘ヘリをウクライナ領内に雪崩れ込ませてロシア・ウクライナ戦争が勃発した。
しかし、この現在の令和四年二月二十四日から始まった
ロシア軍の、戦車とミサイルによるウクライナへの侵略は、
多くの日本国民の目を覚ましたことは確かであるが、
日本政府と国会は、
依然として、遙かユーラシアの西の出来事であり、
日本は戦禍とは無縁と思っている。
何故なら、現在の「黒船」は、
かつてのように眼前の東京湾内に来ているのではないし、
TV画面で見る戦車でもない。
つまり、現在の黒船は、
数千キロ彼方から発射され、
数分で我が国の東京や大阪をはじめとする主要都市に届く
眼前に見えない「核弾道ミサイル」なのだ。
そして、ロシアのプーチン大統領の、
NATO諸国に向けた核兵器使用をほのめかす脅迫的言動で明らかなように、
ロシアやアメリカそして中共の首脳は、
核ミサイルを「通常兵器」と同じように認識し、
場合によっては、
使用する可能性があることを知らねばならない。
アメリカは、我が国の広島と長崎に核爆弾を墜としている。

即ち、我が民族の第二回目の「太平の眠り」とは、
昭和二十年九月二日から同二十七年四月二十七日迄の約七年間、
我が国を占領統治していたアメリカが、
「日本が二度と再び
自分たちの脅威にならない国に止め置くため」
に書いた
「日本国憲法」と題する文書を
「日本の憲法」と思い込んでいる限り続く。
つまり、この眠りの特色は、
「国家と民族の誇りある存立」の為の
「教育」と「国防」と「食糧自給」という
死活的に重要な課題を放棄した
「日本国憲法と題する文書への盲信」
これが現在の「太平の眠り」だ。
よって、この現在の「眠り」の本質は、
我が国を占領統治したアメリカによって、
「日本国憲法という薬物」を接種されて与えられた
病的な「昏睡」である。
これに対し、
徳川幕府時代の「太平の眠り」をもたらした鎖国は、
勃興期にあった西洋人が
自分勝手に名付けた「大航海時代」という
まことに独善的で残虐な
アジアやアフリカに対する「一方的な侵略時代」から、
我が国の独自性を守ろうとする
明確な基本的国策から生まれたもので、
高く評価しなければならない。
しかも、我が国は、この鎖国を二百五十年間続けた。
それが可能であったのは、
食料を日本列島で百%自給自足できる独自の循環型農業社会を構築したからだ。
その日本農業の特色は、
太陽エネルギーと二酸化炭素と水と土壌によって成長する
全植物栄養分を、
人が摂取してから完全に土壌に償還することにある。
この江戸時代の三千万人から三千五百万人の人口を維持しえた
日本的循環農法は、維新後、世界の識者を驚嘆させた。

この徳川幕府による鎖国への起点となった決断が、
天正十五年(一五八七年)の豊臣秀吉による
「切支伴天連追放令」である。
この秀吉の「追放令」の冒頭は、
「日本は神國であるところ、
切支丹国が伴天連を使わして邪法をもたらしたこと、
まことに以てけしからん!」
とある。
つまり、これ、
強烈な「國體」の自覚によってなされた秀吉の英断であった。
従って、この秀吉の英断を引き継いだ「鎖国」は、
この「國體の自覚」に発したものであるが故に、
如何に太平の二百五十年が経ったとしても、
浦賀に入った四隻の黒船を見ただけで、
江戸の日本人は瞬時に覚醒したのだ。

では、現在の、
「日本国憲法という薬物」を接種されて陥った「昏睡」は、
どうなっとるのか?!
薬物を接種されてもたらされた「昏睡」だから、
夢うつつの状態を経て、
徐々に「機能を回復する」と言うしかない。
現在の「日本国憲法改正論」とは
この「夢うつつの状態」特有の現象である。
何故なら、
「改正」とは「日本国憲法」の有効性を前提にしているからだ。
つまり、
「薬物」の本質を受け入れて「薬物」からの「覚醒」はないのだ。
百七十年前の江戸期の日本人のように、
断乎として、
今まで、昏睡しとった!
と覚醒する人々の日々多くならんことを念ずる。

本日、令和五年三月三十一日、
倅の、西村ひかるが、
大阪府議会議員に堺区選挙区で立候補し、
その出陣式後に記す。

日本日本日本


沖縄方面根拠地隊司令官大田實海軍中将は、

明治二十四年四月七日に、現・千葉県長柄町富山の、

現在も新緑の里山と田圃が広がる懐かしい田園地帯に生まれ、

昭和二十年六月十三日午前一時、

沖縄小禄の地下海軍豪の司令官室で六人と幕僚と共に自決し

五十四年の生涯を自ら閉じた。


大田司令官は、同六月六日十七時三十二分、

海軍次官宛てに訣別電報と辞世を打電した上で、

同日二十時十六分、

爆撃の嵐のなかで、

沖縄県民の静かに苦難に耐える尊い姿を

本土に伝えるべき県の機関が既に機能停止なるを確認した上で、

自ら沖縄県民の献身的な闘い振りを海軍次官宛てに打電し、

後世、県民に対し特別の御高配を賜らんことを訴えた。

自ら戦死必至の激戦のなかに身をおきながら、

大田實中将の、

ひたすら、沖縄県民への配慮を求める心情の気高さを思うとき、

これは、世界戦史上不朽の電文である!

よって、

毎年春には、

大田中将の生家の近くの田圃に面して建てられた慰霊碑の前で

近隣そして有志の皆様が集い、慰霊祭が開かれている。

私も数度出席させて頂いたが、

近年、参列できずに打ち過ぎている。

地下深く薄暗い海軍豪のなかで自決する時、

大田中将の瞼には、

この懐かしい郷里の明るい春の風景が映っていたのか、

と感慨深く思った。

次の一文は、

本日行われている慰霊祭に送った私の追悼文であります。


・・・     ・・・     ・・・     ・・・


沖縄方面根拠地隊司令官 大田實海軍中将は、

明治二十四年四月七日、千葉県長柄町にお生まれになり、

海軍兵学校を卒業されて海軍士官となり、

大東亜戦争の沖縄方面の戦闘において部下と共に勇戦奮闘され

遂に、昭和二十年六月十三日午前一時

沖縄小禄の地下海軍豪司令官室において、六名の幕僚と共に


おおきみの御はたのもとに ししてこそ

          人と生まれし甲斐でありけり


との辞世をのこして享年五十四歳にて自決されました。

しかも、大田實中将は、

この御最期の前の六月六日二十時十六分、

本土の海軍次官宛てに、

驚くべき電報を打電されているのであります。

この電報は、

本土に報告すべき沖縄県知事等の機関がもやは機能を停止しているのを確認の上、

「これを看過するに忍びず」と自ら筆をとって、

敵砲弾の雨霰と降る戦場における

沖縄県民の献身的な闘い振りを報告し、

最後に、

沖縄島は・・・一木一草焦土と化し、

糧食六月一杯を支ふるのみなりと伝えた上で、

「沖縄県民斯く戦へり 

県民に対し、

後世特別の御高配を賜らんことを」

と格調高く結ばれた、

まことに、世界戦史上不朽の電報であります。

そして、

この電報が、我が国の國是である「八紘為宇」

即ち、

「日本は一つの屋根の下の一つの家族の国」

の精神に出でたものであることを思えば、

この不朽の電報を打電した武人を持ったことは、

日本民族の誇り、でありましょう。

ここに、

大田實中将の慰霊祭にご参列の皆さまに敬意を表し、

大田實中将の霊に、

遙か彼方の大阪から合掌いたします。


西村眞悟FBより

日本日本日本