三月十一日、東日本大震災から十二年の歳月が経っている。
十二年前の三月十一日十四時四十六分十八秒、
私は大阪府堺市の自宅で原稿を書いていた。
すると、古い木造の家の廊下のほうから、
ミシ、ミシ、という音が聞こえ、
家人ではない誰かが歩きまわっているような気配がした。
しかし、見回ったが誰もいなかった。
二十分ほど後に、外出していた家内から電話があり、
「ビルの七階にいたが、揺れた、テレビを見て」と。
そしてテレビのスイッチを入れると
仙台近郊の名取川上空を飛行するヘリからの映像が映った。
名取川の土手に逆流する水がぶつかっていた。
そして、カメラが左の河口の方向に回されると、
ヘリに乗っていたアナウンサーが「うお~!」と叫んだ。
真っ黒い水の壁が上に数個の民家を浮かべて、
海の方から、
車がスローモーションのように走る
道路の方向に動いていたのだ。
黒い水の壁の上に浮かぶ一軒の家からは炎がでていた。
これが、私が見た、
東日本大震災による津波に襲われる被災地の映像だった。
特筆すべきは、
まさにこの発災の時、東京市ヶ谷の防衛省庁舎最上階に、
自衛隊の最高位である折木良一統合幕僚長と
火箱芳文陸上幕僚長
杉本正彦海上幕僚長
岩崎茂航空幕僚長
合計四名のトップが一同に会していたことだ。
彼ら四名は、
同日十四時四十六分十八秒、共に強い揺れに襲われた。
そして、次の瞬間、
四名全員、自衛隊の出動を決意する。
陸上自衛隊の火箱芳文幕僚長は、
エレベーターが使えなくなった庁舎の階段を降りながら、
陸自救援部隊の編成、即ち、戦闘序列を決定し、
全国の各部隊に出動を命令した。
海上自衛隊の自衛艦隊司令官倉本憲一海将は、
発災から六分後の十四時五十二分、
「全可動艦艇出航、三陸沖に向かえ」という命令を発した。
これは、創設以来始めての特異な命令である。
即ち、小型でも大型でも、なんでもいいから、
すべて出航して、
三陸沖に向かえという命令だった。
よって、
訓練の為に海外にいた護衛艦も反転して三陸沖に向かった。
修理のためにドックに入っていた艦艇も機関が動く以上
修理を止めてドックから出て三陸沖に向かった。
また、任務飛行中の対潜哨戒機P-3Cも三陸沖に向かった。
横須賀で、この様子を見ていたアメリカ海軍の幹部は、
「こんなに早く全艦艇を出せる海自の能力は世界一だ」
と言った。
そして、遂に、
陸海空自衛隊の統合運用史上最大の
十万七千人の統合任務部隊(Joint Task Force)が結成された。
指揮官は君塚栄治東北方面総監陸将
後に、指揮官の君塚栄治陸将は、
被災者の御激励と御見舞いの為に
自衛隊機で松山基地に降り立たれた
天皇陛下をお迎えして、鉄兜野戦服の姿で正対して敬礼した。
この時、戦後、初めてのことが起こっていた。
即ち、
被災者救助救援の為の
十万七千の統合任務部隊(Task Force)は、
「天皇の軍隊」
になった。
東日本大震災において
自衛隊、警察、消防は次の通り被災者を救助した。
自衛隊 一万九二八六名
警察 三七四九名
消防 四六一四名
総数二万七六四九名。
その十六年前の阪神淡路大震災においては次の通り。
自衛隊 一六五名
警察 三四九五名
消防 一三八七名
総数五四一七名。
自衛隊は、
東日本大震災では、
全生存者救出数の約七十%を救出したのに対し、
阪神淡路大震災では
約三%しか救出できなかった。
この被災者の生死を分ける驚くべき格差は、
阪神淡路では、
自衛隊は無能な総理大臣の出動命令を待っていて、
初動が遅れたのに対し、
東日本では、この十六年前の無念の教訓を生かして
自衛隊首脳が、発災と同時に自衛隊を出動させたからである。
昔から言うではないか。
「馬鹿な大将、敵より恐い」と。
「馬鹿な首相は、地震と津波より恐い」のだ。
明治三十八年三月十日、
日本陸軍は、日露戦争の奉天大会戦に勝利した。
よって、この三月十日という日は
「陸軍記念日」とされた。
平成二十三年三月十一日、
自衛隊は東日本大震災における人命救助に
圧倒的な成果を挙げた。
よって、この三月十一日という日は、
「追悼と自衛隊に感謝する日」である。
菅という男が首相だったから無理だったのだが、
前記、陸海空自衛隊のトップ四名は、
宮中において天皇陛下の謁を賜った上で
天皇陛下から勲章を親授されるべく、
内閣において取り計られるべきであった。
発災後、同志と共に被災地を訪れ、
飯舘村の村長に会ってお見舞いをお渡しして
伊達市に抜ける山道を下っていたとき、
道の右側の田圃の中に、
「自衛隊さん、ありがとう!」と書いた紙を持って
数名の子供達が立っていた。
すると、
前を走っていた自衛隊員を乗せたバスが止まった。
そして、バスの中の自衛隊員は、
全員立ち上がって子供達に敬礼した。
涙がでた。
あの子供達は、今は二十歳になっているだろう。
また、自衛隊員たちは、
炊き出しをして暖かい食べ物を被災者に配った。
しかし、自分たちは、野戦訓練の時と同じで、
暖かい物を食べず、冷たい缶詰を食べ、
そして靴を脱がず土の上で寝ていた。
その年の七月、
猪苗代湖畔のホテルに
原子炉近くの双葉町から避難した八百名の人々が身を寄せていた。
その時、
その人々の主治医となっていた猪苗代の高士、
医師の野崎豊先生から、
「国の状況を報告しに猪苗代に来い」
という指示があり、そのホテルに行った。
そして、菅という首相が無責任に言っていることの反対を語った。
その講演後、
一人の初老の方が手を挙げて発言を求められた。
その方は、言った。
私は、ここにいる避難民の自治会会長をしている。
我々は、原子炉から出る放射能の故に
郷里を追われてここに避難しているのだ。
この我々を前にして貴方は
原子力発電は日本に必要であると言われた。
敬意を表する。
我々も、原子力発電は日本に必要だから
郷里に原子力発電所ができることに納得したのだ。
それを、マスコミは、
我々が、金をもらったから納得したように報道している。
無念でならん。
双葉町の皆さまのこと、今も忘れ得ない。
七十歳、八十歳代の人がほとんどだった。
エレベーターのドアが開いても、
決して先に乗ろうとはされない方々だった。
あのホテルを出られてから、
もう二度と会えない。
ご健勝を祈るばかりだ。