天皇の至高の尊さ
日本は太古から同一性を保持して現在に至っている
京都左京区の大文字山麓を南北に流れる疎水近くの学生寮に住んでいた時、
同じ寮に後に産経新聞の論説委員長をする皿木喜久氏がいた。
小生は、昭和二十三年七月七日生まれで、
皿木氏は、昭和二十二年四月二十一日生まれ、
そして、「日本国憲法と題する文書」の施行は
昭和二十二年五月三日だった。
その皿木氏が小生に対して、
「俺は帝国臣民として生まれたが、
西村は帝国臣民ではなく日本国民として生まれたのだ」
と、露骨に優越感に満ちた顔をして度々自慢した。
それで、
けったくそ悪い、このままでは済まさんと思いながら
銀閣寺近くの疎水の側を歩いていると、
彼が最も恐れるもの、大きなガマガエル!を見つけた。
そこで、そいつを捕まえてポケットに入れ、
寮に戻って窃かに彼に近づき、
無理矢理、皿木氏の顔にガマガエルをのせると、
絶叫と共に気絶寸前の状態になった。
我が懐かしの学生寮は、
寮生の自治で運営され、誰を入寮させるかは寮生が決める。
西村に面接して小生の入寮を決めたのは、
先輩の皿木氏だった。
自業自得とは言え、気の毒なことをした。
この学生時代のエピソードを記した所以は、
皿木氏の立論は正しいのか否か、確認する必要があるからだ。
そして、結論は、
この西村も、「帝国臣民として生まれている」ということだ。
つまり、
我が国は「戦前戦後の連続性」を維持している。
何故なら、「日本国憲法と題する文書」は、
日本の憲法として無効であるからだ。
そもそも「日本国憲法と題する文書」は、
昭和二十一年二月の十日間足らずの間に、
日本を軍事占領していたアメリカ軍の
D・マッカーサーの手下が書いて、
それを同年十一月三日の明治節に公布し、
翌昭和二十二年五月三日の
極東国際軍事裁判(東京裁判)の開廷一周年記念の日に施行したものだ。
この間、我が国は、サンフランシスコ講和条約第一条に明記されているとおり、
連合国との戦争状態にあり且つ被占領下で国家主権は無い。
国家に主権が無い時に「憲法」は制定できない。
なお、
東京裁判の東條英機等「戦犯」の起訴は、
昭和二十一年四月二十九日の
天長節(昭和天皇の御誕生日)に行われ、
彼等「戦犯」の死刑執行即ち殺害は
昭和二十三年十二月二十三日の
皇太子殿下の御誕生日に行われた。
この日本国民の祝日を選んで、
「日本国憲法と題する文書」を日本の憲法として押しつけ、
また皇太子の誕生日に
東條等の死刑を執行するマッカーサー率いるGHQの手法を観れば、現在に於いても、
その陰湿な悪意に対する怒りが込み上げる。
しかし、これは、彼ら西洋人の、
まことにいやらしい「宿痾の性癖」であることを知らねばならない。
現在、欧州はキリスト教圏で
欧州からアメリカ大陸に渡った連中も
原住民を駆逐してそこをキリスト教圏にしている。
では、イスラエルの地に発するキリスト教が、
ローマ帝国の国教となった西暦三九二年以来、
如何にして欧州全域に広がったのか。
それは、キリスト教を知らない種族の「聖なるもの」を、
その眼前で冒涜してみせることで、
その「神聖」を否定させる手法によってである。
例えば、神が宿る大木を崇めている種族の前で、
宣教師がその大木を切り倒してみせる。
その上で、邪教を捨ててキリスト教を信じろと迫る。
マッカーサーが、
天皇の誕生日を選んで「戦犯」を起訴し、
皇太子の誕生日を選んで彼らを絞首して殺害したのも、
この同じ性癖によるものだ。
しかし、
ユーラシアの東端から海を隔てた日本列島にあるわが国は、
太古からの同一性を堅持して現在の二十一世紀に至っている。
この証(あかし)が万世一系の天皇の存在だ。
全国津々浦々の神社には、
しめ縄を巻いた樹齢二千年の大木が立っている。
我が国を占領統治した、マッカーサー率いるGHQは、
確かに「日本国憲法と題する文書」の前文で
「我らは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」
と書いて
我が国の戦前と戦後を切断しようとしたが、
これは、万世一系の天皇がおられる日本では空振りであった。
そこで、次に、我ら臣民は、
昭和天皇が、
昭和二十年八月十五日の全国民に対してなされた玉音放送
と同時に、
大陸命と大海令によって自衛以外の作戦行動の停止を命じられ
帝国陸海軍が戦闘を停止してから、
戦前戦後の連続性を堅持する為に、
天皇御一人が、遂行された
全帝国陸海軍に遙かに勝る
「礼服を着た戦い」の成果を。
心の底から認識しなければならない。
まず、昭和天皇の、
「大東亜戦争終結の詔書」(昭和二十年八月十四日)と
「年頭、國運振興の詔書」(昭和二十一年一月一日)こそは、
我が国の「國體の護持」と「志の連続性」を宣言されたものだ。
「終戦の詔書」は、
時の内閣総理大臣鈴木貫太郎の「自伝」に明記されているように、
陛下が昭和二十年八月九日と十四日の、二度にわたる御前会議において重臣達に「御聖断」を懇々と述べられた御言葉を、
そのまま詔書に書き直し、
時の総理大臣以下全閣僚が副署したものである。
この詔書において、陛下は、
二度にわたって
「茲ニ國體ヲ護持シ得テ」また「誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ」と
「國體」の護持と其の精華を強調されると共に、
「確ク神州ノ不滅ヲ信ジ」と宣言されている。
さらに、見逃してはならないのは、
昭和天皇が本詔書において、
原子爆弾の本質について
「人類の文明を破却するもの」との認識を
世界に魁けて表明され、
その人類文明の破却という人類の大惨害を防ぐ為に
戦を止めると言われたことだ。
これは、人類を一つの家族と認識された上での御決断であり、
まさに八紘為宇の志の実践である。
他方、
広島への原子爆弾投下の第一報を
巡洋艦オーガスタの甲板で聞いたアメリカ大統領の
トルーマンは、
「おお、人類、初めてのことが起こった!」
と飛び上がって喜んだ。悪魔的な低脳である。
また、
敗戦後に始めて迎える元旦に発せられた詔書の冒頭は、
「茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初國是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ、曰ク、」
とあり、次に、
「五箇条ノ御誓文」全文を掲載された上で、
「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス」
と宣言された。
戦後の義務教育においては、
この詔書を「天皇の人間宣言」と教えているが、
この詔書の主眼は、
冒頭の、明治天皇が発せられた「五箇条の御誓文」と
同じ国家目標即ち「国家の志」の宣言、
つまり戦後の日本と明治の日本の連続性の宣言だ。
「天皇の人間宣言」とは、戦後特有の卑劣な本質の隠蔽である。
太古に編纂された萬葉集第一巻冒頭の歌は、
雄略天皇の
春の野で菜を摘む娘に対する夜這いの申し込みの歌だ。
天皇が人間であることは、
日本人にとって
太古から当然のことではないか。
明治四十五年七月二十九日午後十時四十三分、
明治天皇が崩御された。
そして、午後十一時十二分、
十一歳の裕仁親王殿下(後の昭和天皇)は御参内され
御尊骸に礼拝された。
その時、皇后より殿下に
「御尊顔を御記憶になるべき旨の御言葉」
があった(昭和天皇実録)。
以来、昭和天皇は、生涯にわたって、
明治陛下と
明治陛下の御跡を追って殉死していった
学習院院長乃木希典を思い続けられた。
それ故、昭和天皇は、
昭和二十年八月九日と十四日の御前会議に於いて
二度にわたって
「私は明治大帝が涙をのんで思いきられたる三国干渉の御苦衷をしのび、
この際耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」
と御発言されている。
以上の詔書において明確にされた
我が国の悠久の太古からの連続性を前提として、
次に昭和天皇が為された
死を全く恐れない無私の行動をみなければならない。
天皇は、正月元旦未明に、
宮中最深の秘儀である
「四方拝」を為される。
それは、国民にふりかかる総ての災いは、
総て我が身を通れ!
「過度我身!」
と念じられる秘儀であると聞く。
恐ろしい秘儀である。
母は、わが子にふりかかる災いは、
わが子ではなく自分にふりかかれと祈ることができる。
とはいえ、普通の人は、
全国民にふりかかる災いは、
総て自分にふりかかれと念じることは恐ろしくてできない。
しかし、天皇は、
毎年正月元旦、まさにそれをされるのである!
即ち、天皇とは、
全国民は愛する一つの家族である、
即ち、八紘為宇の基におられるのだ。
軍隊に戦闘を止めさせた後の天皇は、
この四方拝の実践、即ち、過度我身!
「総ての災いは我が身を通れ!」
に静かに進まれたのだ!
昭和天皇実録によると、
天皇は、
昭和二十年九月二十七日午前九時五十五分に御出門になり
米国大使館に行幸され、
連合国最高司令官D・マッカーサーと非公式に通訳をいれた三人きりで、およそ三十五分間話し込まれた。
陛下が米国大使館に到着された時には、
最高司令官軍事秘書のボナー・フェアーズ准将と副官が出迎え、
D・マッカーサーは傲慢に構えて出迎えずに自室で
多分、不安な思いで陛下を待っていた。
しかし、侍従長によると、
会見を終えた陛下とマッカーサーは、
親しそうに次室に出てきて、
マッカーサーは、陛下を、尊敬の念をもって
「Your Majesty(陛下)」
と呼んでいたという。
ところが、会見前に撮影された
天皇の横に立つマッカーサーの顔は緊張でこわばっている。
つまり、マッカーサーは、天皇が恐かったのだ!
彼は、天皇陛下万歳を叫んで
死を恐れること無く突撃してくる日本軍(第十四軍)に、
瞬く間にけ散らされ、マニラを放棄して
バターン半島に逃げ込んだ軍司令官だった。
このように
「天皇の日本軍」に恐ろしい目にあわされたマッカーサーに、
その天皇御本人が!
会いに来る。顔もこわばるだろう。
しかし、天皇は、マッカーサーに、冒頭次のように言われた。
これ、「死」を決した御言葉である。
イギリスとソビエトは
戦犯リストの冒頭に天皇を位置づけ処刑を要求していた時だ。
敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追及されているが、
責任は全て私にある。
文武百官は、私の任命するところだから、
彼らに責任はない。
私の一身は、どうなろうと構わない。
私はあなたにお委せする。
この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、
連合国の援助をお願いしたい。
この天皇の御言葉を聞いた時の思いを、
マッカーサーは十年後に
ニューヨークで重光葵外務大臣に次のように語った。
私は、これを聞いて、興奮のあまり、
陛下にキスしようとしたくらいです・・・
私の陛下に対する尊敬の念は、
その後ますます高まるばかりでした。
また、マッカーサーは、天皇に会った後に、
「我、神に会えたり!」
と心に叫んだ、とも漏らしている。
次に、天皇が思い立たれて実施された全国巡幸は、
国民の感激の涙と歓呼に迎えられ、
昭和二十一年二月から同二十九年八月まで八年半の期間に及び、
お立寄り箇所一千四百十一箇所、
移動距離三万三千キロだ。
御製
戦のわざはひうけし国民をおもふこころにいでたちてきぬ
白豪主義のオーストラリア人で反日主義者で天皇訴追派であった
東京裁判の裁判長ウイリアム・ウエッブは、
裁判終了後に帰国して、
「日本の天皇とは何か?」と尋ねられ、
次のように答えている。
「日本の天皇とは神だ。
あれほどの試練を受けながら
国民の信頼を失わない存在は、
神としか考えられない」
天皇は、
昭和二十四年六月七日から十日まで、大分県に行幸された。
その時、奉迎の人びとのなかに、
昭和二十年八月十四日、正午前
御前会議を終えて退出される陛下に、すがりつくように慟哭し、
翌十五日未明、
割腹して自決した
阿南惟幾陸軍大臣の未亡人が立っているのを認められた。
そして、次の言葉をかけられた。
その後はどうして暮らしているか、
苦しいでしょうが今しばらく辛抱してください。
身体を大切に、遺児を立派に育てて下さい。
阿南夫婦は七人の子沢山で(一人戦死)、
戦後、将官に対する歳費は総て打ち切られたので、
東京では生活ができず、
未亡人は子どもを連れて阿南本籍地の竹田に移り住んでいたのだった。
なお、天皇の全国御巡幸の際のことを書いた本に
しらべ かんが著「天皇さまが泣いてござった」教育社
(調 寛雅 佐賀県三養郡基山町宮浦816)
がある。涙なしには読めない。