大東亜共同宣言 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

八月に入ると、TVの画面からは、
連日、空襲の焼け跡と、広島と長崎に投下された
原子爆弾で焼かれた
大勢の犠牲者の無残で気の毒な悲しい姿が放映される。
しかし、
人類史における大東亜戦争を俯瞰する視点も必要だと思う。
このこと、
日々の交通事故や犯罪の現場を、毎日、見続けても、
日本という祖国の実相を知ったことにならないのと同じである。
そこで、まず、世界史また文明史のなかの、
日本の存在意義を実感するために、
昭和十六年(一九四一年)八月十四日に、
発せられた「大西洋憲章」と、
昭和十八年(一九四三年)十一月六日に
署名された「大東亜共同宣言」を取り上げる。

前者は、カナダのニューファンドランド沖に停泊した
イギリス戦艦プリンス・オブ・ウエールズの艦上で
イギリス首相W・チャーチルと
アメリカ大統領F・ルーズベルトによって発せられ、
後者は東京の国会議事堂で
日本、中国、タイ、満州、フィリピン、ビルマそしてインド首脳によって署名された。
その署名国の内、
特にフィリピンとビルマとインドの各首脳が、
この昭和十八年十一月の時点で東京に集まることができたのは、
我が国が、
大東亜戦争開戦時の昭和十六年十二月八日午後零時に発表した
「帝国政府声明」によって掲げた
「英米の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復す」
という戦争目的に基づき、
軍事力によって、
その地域の植民地支配者であった
イギリス軍とアメリカ軍を駆逐したからである。    

しかし、我が国の中学・高校の歴史教科書は、
「大西洋憲章」を、
「第二次世界大戦後の世界の在り方を指し示した文書」であり
「国際連合(UN・連合国)などの戦後の世界秩序を決定した文書」と教えているが、
「大東亜共同宣言」の歴史的意義を取り上げない。

そこで、結論から言う。
第二次世界大戦後の世界秩序を決定づけたのは、
「大東亜共同宣言」であり、
「大西洋憲章」は、
ナチスドイツに支配されたヨーロッパ諸国民の解放を謳っただけの
米英首脳両人の署名のない「怪文書」である。
そもそも、チャーチルとルーズベルトが、
イギリスとアメリカの植民地である
インドやビルマや南アフリカやフィリピンやグアムからの撤退と解放を
謳うはずがないではないか!
これに対して、
「大東亜共同宣言」は、
ヨーロッパの「白人」による
アジア・アフリカの数百年にわたる植民地支配と、
人種差別を廃止して
諸民族の共存共栄の喜びを共にすべしと訴えたもので、
世界史上初めての有色人種による国際会議である
大東亜会議で宣言された。
即ち、人類の「文明の転換」をもたらした
二十世紀の特筆すべき国際宣言である。

昭和十四年(一九三九年)九月三日、
突如、ポーランドに侵攻したドイツに対して、
イギリスとフランスが宣戦を布告して第二次世界大戦が始まる。
そして、翌年五月、
東部戦線から西方での攻勢に転じたドイツ軍は、
イギリス軍三十五万人を
ドーバー海峡に面するダンケルクに追い詰め、
同時期、
マジノラインを突破して、六月十四日、パリを陥落させた。
イギリスは、戦死者一万人と捕虜三万人の損害を出しながら
三十万人の将兵をダンケルクから救出するが、
八百八十門の野砲、三百十門の大型火砲、八百門の対戦車砲、
七百両の戦車、四万五千両の軍用車両という
装備のほとんどを大陸においてきた。
さらに始まったドイツとの空中戦(バトル・オブ・ブリテン)で、
昭和十六年(一九四一年)五月までに、
イギリスのベテランパイロット一千五百名が戦死し、
民間人二万七千四百五十人が爆撃で殺害され
三万二千百三十八名が負傷していた。
パリが陥落しフランスが降伏した後のイギリスも、
陸上と航空の戦力欠乏で絶望的状況に陥ったのだ。
このイギリスに残された方策は、
アメリカの参戦による起死回生しかない。
よって、W・チャーチルは、昭和十六年八月四日、
戦艦プリンス・オブ・ウエールズに乗って
瀕死のイギリスを離れて大西洋を渡り、
八月九日、ユーファンドランド沖で
巡洋艦オーガスタに乗ったF・ルーズベルトの出迎えを受けた。
この時、イギリスの首相にとって、
アメリカのF・ルーズベルトに会う目的は、
アメリカの参戦を具体的に確認すること、
つまり「戦争の謀議」である。
署名もしない作文を紙に書くためではない。

他方、F・ルーズベルトは、
第二次世界大戦勃発から四ヶ月後の大統領選挙において、
「お母さん、貴女の息子をヨーロッパの戦場に送りません」と
「ヨーロッパの戦争」に参戦しないことを
公約して三選を果たしていた。
しかし、前任のフーバー大統領に
「戦争を欲する狂人」と言われた男である。
また、マニフェスト・デスティニー(西に向かう神の聖なる使命)の信奉者である。
東の大西洋からヨーロッパの戦場に入って
「公約破り」、「嘘つき」と言われることなく、
西の太平洋という裏口から欧州の戦争に入ることを模索した。
これを
「裏口からの戦争」
(Back Door to The War)という。
そして、
海軍作戦部長ハロルド・スターク海軍大将に、
「日本に対して石油を全面禁輸すれば、どうなる?」
と諮問し、
「確実に戦争になる」
という回答を得て
八月一日、対日石油全面禁輸を断行する。
つまり、西部劇でよくある、
相手に早く拳銃を抜かせて正義面をする手法だ。
そして、
日本の近衛首相からの再三の首脳会談の要請を無視して
「十日間の休暇」と偽って
ニューファンドランド沖に向かう。

よって、ニューファンドランド沖で米英首脳の話の内容は、
ズバリ「戦争の謀議」以外に無い。
即ち、アメリカは、
「日本に先に奇襲攻撃をさせて、
日本と日本の同盟国である
ドイツとイタリアに宣戦布告してヨーロッパの戦場入る」、
これを確認した。
そして、この四ヶ月後の十二月八日、
日本海軍はハワイの真珠湾を「奇襲攻撃」したのだ。
チャーチル著「第二次世界大戦」によれば、
待ちに待った日本軍の真珠湾攻撃の報に接したチャーチルが、
ルーズベルトに電話したら、ルーズベルトが言った。
「その通りだ。日本は真珠湾を攻撃した。
これで我々は同じ船に乗ったわけだ。」
チャーチルは日記に書いた。
「その日の夜、興奮と感動で疲れ果てていたが、
私は救われた人間、
感謝の気持ちに満ちた人間として
眠りにつくことができた。」

第二次世界大戦終結後に、「東京裁判」ではなく、
仮に「ワシントン裁判」があったら、
W・チャーチルとF・ルーズベルトは、
確実に「戦争の謀議」によって絞首刑である。 

「大東亜共同宣言」は、
既に記したように世界文明史における画期的な意義を持つ。
よって、次ぎにその大東亜会議を企画・実現して
「大東亜共同宣言」を起案した
外務大臣重光葵について記したい。
この典型的な戦前の日本人を知ることも、
現在の我が国にとって大切なことである。

重光葵は、明治二十年(一八八七年)大分に生まれ、
外交官となり、
東条内閣と小磯内閣(昭和十八年~二十年四月五日)
次ぎに東久邇宮内閣(昭和二十年八月十七日~九月十五日)
で外務大臣を歴任する。

昭和七年(一九三二年)一月に上海で勃発した局地戦で、
我が国が日露戦争以来の大きな損害を被った
第一次上海事変の停戦交渉に尽力していた
駐華公使重光葵は、
四月二十九日の上海虹口公園(現、魯迅公園)で行われた
天長節祝賀式典において、
壇上で国歌「君が代」を斉唱していたとき、
朝鮮人尹奉吉が投げ込んだ爆弾で重傷を負った。
この時、重光と共に壇上で「君が代」を斉唱していた
民間人と陸軍中将の二人が死亡し、
後に日米開戦時の駐米大使であった
第三艦隊司令長官野村吉三郎海軍中将は
片目を失明し隻眼となった。
そして、重傷を負った重光は、
激痛の中で中国側と交渉を続け、
五月五日の上海停戦協定に署名してから、右足を切断した。
後に、重光が言うには、
爆弾が投げ込まれたことに、皆気付いてはいたが、
天長節において国歌「君が代」を斉唱中であったから、
皆、退避せず斉唱を続けたということだ。
明治に生まれ育った日本人とは、
こういう人達であったのか、
としみじみ思う。
重光葵は、
毎朝、教育勅語を奉唱して一日を始める明治人であった。
この重光が「大東亜共同宣言」を起案したのだ。

次ぎに重光は、昭和二十年八月十七日、
武装解除される帝国陸軍の暴発を押さえるために組閣された
陸軍大将東久邇宮内閣の外務大臣となり、
同九月二日、
全権としてアメリカ戦艦ミズーリ号の甲板に義足で上がり、
降伏文書に
「大日本帝国天皇陛下の命に依り且つその名において」
署名する。
そして、下船した重光を待っていたものは、
連合軍最高司令部が、
九月三日午前六時を期して実施する三項目の通告であった。
それは
① 連合国最高司令官が日本国政府を経由せず直接軍政を実施する。
② 日本の裁判所の機能を停止しアメリカ軍軍事法廷で一切の裁判を行う。
③ 日本通貨の使用を禁じアメリカ軍の軍票を以て日本の通貨とする。
そこで重光は、我が国の
「國體を否定する大東亜戦争に於ける最大の危機」
というべきこの通告を撤回させるために、
翌三日朝、マッカーサー最高司令官が宿泊する
横浜のニューグランドホテルに乗り込み、
マッカーサーに面談してこれを撤回させた。
勿論、重光は、
日本はドイツと異なり政府組織が健在であること、
占領軍の直接の軍政は
ポツダム宣言及び降伏文書に違反すると強く主張したであろう。
しかし、
マッカーサーを仰天させて翻意せしめた最大の警告は、
「本土決戦で玉砕を覚悟して待機していた
二百五十万人の日本軍将兵が
何をするか分かりませんぞ!」
という重光の恫喝であったと思う。
マッカーサーも、
天皇の為に死を恐れない日本軍が、
如何に恐るべき軍隊であるか身にしみていたからだ。
この時、重光は
「礼服を着た戦士」であり
その背後には二百五十万人の
決死の帝国陸海軍がいたのであろう。

以上、「月刊日本」誌に投稿した原稿に加筆した。

西村眞悟FBより

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