護衛艦いずもをつくる66〜69 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

今回のパーツです。




格納庫壁面のLEDライトの取り付け、そして久しぶりに飛行甲板のLEDライト、光ファイバーの取り付けです。

スタースタースター

飛行甲板のLEDライト点灯テストです。

配線が上手く出来ましたwwスターグーにっこり

今回は以上ですニコニコ

日本日本日本


東日本大震災のとき、米軍が「トモダチ作戦」と名づけて救助復興支援をしてくれたことは、みなさまご存知のことと思います。

けれど、その「トモダチ作戦」が、60年以上も前に起きたある小さな事件がきっかけになっていたことを、誰も報道しません。


実はこのことは、私も知らなかったことで、昨日ご紹介しました服部剛先生のご著書『教室の感動を実況中継! 先生、日本ってすごいね』を読んで初めて知りました。

そこで今日は、このことをねず式で要約してお届けしたいと思います。


大東亜戦争の終結から5年後の昭和25(1950)年9月のことです。

まだ戦火の傷跡が残る日本に、一人の米国人がやってきました。

米海軍の提督、アーレイ・バーク大将です。


バーク大将は、東京・帝国ホテルにチェックインしました。

従業員「バーク様、お荷物をお持ちいたします」

バーク「やめてくれ。最低限のこと以外は、私に関わるな!」


実は、バーク大将は筋金入りの日本人嫌いでした。

バーク大将の心には、敵だった日本人への激しい憎悪が燃えていたのです。

それは、戦争中「日本人を一人でも多く殺すことなら重要だ。日本人を殺さないことなら、重要でない」という訓令を出したほどだったのです。

ついこの間まで戦争で敵として戦い、多くの仲間を失っているのですから、米国海軍大将として当たり前の感情であったのかもしれません。


バーク大将は日頃から公(おおやけ)の場で日本人を「ジャップ」「イエローモンキー」と差別的に呼んでいました。露骨に日本人を蔑(さげす)みました。

ですから帝国ホテルにやってきたときも、いくら日本人の従業員が話しかけても無視したのです。


そのバーク大将が日本に来てから一ヶ月ほどしたある日のことです。

「それにしても、なんて殺風景なんだ、この部屋は!」

ベッドと鏡台とイスだけの部屋を見て、せめてもの慰みにと、バークは一輪の花を買ってきてコップに差しました。

このあと、この花が意外な展開をたどることになったのです。



バーク大将は考え込みました。

「自分は日本人を毛嫌いしているというのに、彼女はできる限りのもてなしをしている。この違いは、いったい何なんだろうか?」


のちにバーク大将は次のように述懐しています。

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私は彼女の行動から日本人の心意気と礼儀を知った。

日本人の中には、自分の立場から離れ、公平に物事を見られる人々がいること。また、親切に対して金で感謝するのは日本の礼儀に反すること。親切には親切で返すしかないこと、を学んだ。

そして、自分の日本人嫌いが正当なものか考えるようになった。

****


こうして、バーク大将の日本人に対する見方は一変しました。

折りしも朝鮮戦争は激しさを増していました。

バーク大将は一刻も早く米国の日本占領を終わらせ、日本の独立を回復するようにアメリカ政府に働きかけるようになりました。

なぜなら、東アジアにしっかりした独立国が存在することがこの地域の平和を安定させるからです。


そして、その日本の独立を守るために絶対に必要なのが「日本海軍の再建」であると主張しました。

まだ終戦五年後のことです。

米国人の多くがまだ反日感情を持っている時代に、バーク大将は根気強く説いてまわり、ついに海上自衛隊の設立を実現させたのです。


帰国したバーク大将はアメリカ海軍のトップである作戦部長に就任しました。

この時、バーク大将は最新鋭の哨戒機(しょうかいき)P2Vを16機、小型哨戒機を60機も海上自衛隊に無償で提供しました。


昭和36(1961)年、バーク大将は海上自衛隊の創設に力を尽くした功で、日本から勲一等旭日大綬章(最高位の勲章)を贈られました。

平成3(1991)年、バーク元海軍大将は96歳で亡くなりました。

各国から多くの勲章を授与されたバークですが、葬儀の時に胸に付けられた勲章は日本の勲章ただ一つでした。

それは本人の遺言によるものでした。

そのため、ワシントン海軍博物館のバーク大将の展示には、日本の勲章だけが抜けたままになっています。



☆全文はブログから、お読み下さい。

ねずさんの学ぼう日本・ネガティブをポジティブにより。

日本日本日本

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①  一年生の時に、初めて廊下に立たされました笑

② ニ年生の時に初めて先生にビンタパードンッされました笑その女性の担任の先生が共産党系の教員だったんですが、今でいう所謂「自虐史観」、やれ日本は悪かったなどという事は一切言わなかったですね。(義務教育・高校では自虐史観を植え付けられた記憶が無いんです。)楠木正行公ゆかりの大阪府四條畷市という土地柄もあったのでしょうか?
共産党系の先生でさえ、悪いことをした時にはしっかりと身を持って教えて頂きましたからね。
現在ではあり得ない話です。それと家の新聞、親戚宅の新聞が全て「産経新聞」だっんですね。
今から思うと本当に感謝です。
もし朝日新聞だったらと思うとゾッとします笑

③ 三年生の時の担任の先生は女性でした。本当に可愛い💕先生だったんです。家庭訪問の際にお袋が、「フランス人形みたい」って言ったほど可愛いかったのです😍
その先生にもビンタパードンッされました笑
左足を怪我をした時(かなりの重傷でしたぐすん)、背中におぶって頂き自宅まで送って頂きましたあせる。その時の担任の先生の背中の温かさは今でも残っています泣泣泣

④ 四年生から六年生はあまり記憶に御座いません笑

以上です歩く