ウクライナ戦争を止める為の効果的な方策 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

ロシアのウクライナ戦争を観ていて、

歴史を振り返り、

これを止める最も効果的な一手を思いついたので提示する。


一九三九年(昭和十四年)五月から九月にかけて、

ソ連(ロシア)と我が国が、

満・蒙国境付近で戦った

ノモンハン事件を振り返ることが有益だと思う。

「自分の損害を全く公表しないロシアの癖」と、

ロシアが何を怖がるのか、

その恐怖に駆られて

ロシアが他国との条約を如何に利用するのか

という見本があるからだ。

現在も、ロシアは自分の損害を公表していない。


一九三九年(昭和十四年)五月から九月十五日まで、

日ソ両軍は、

満州とモンゴルの国境線を巡ってノモンハンで全面衝突した。

日本軍の兵力は、

熊本の新設師団である

第二十三師団(師団長小松原道太郎中将)約二万、

ソ連軍兵力は、

後にドイツとの大祖国戦争の参謀総長を務め元帥となる

ゲオルギー・ジューコフ将軍率いる

戦車と航空機を主体とする

スターリン自慢の機械化部隊二十三万である。


開戦前に、もし、この日ソ両軍を見た第三国の将官ならば、

この度のロシア軍のウクライナ侵攻前と同じように、

三日間でソ連軍の圧勝で決着すると判断しただろう。

しかし、現実は、

戦争は五月から九月十五日の停戦合意まで続き、

日本軍死傷者一万八千人、

ロシア軍死傷者二万五千六百人である。

即ち第二十三師団は潰滅した。

しかし、

彼ら第二十三師団将兵は、

ロシア軍二十三万の機械化部隊を壊滅させている。

それは、

日本軍に破壊された

ソ連軍の戦車と航空機の数を見れば明らかである。

ソ連軍の戦車800台が破壊された。

これに対し、日本軍の戦車損害29台。

ソ連軍の航空機1673機が撃墜された。

これに対し、日本軍の航空機損害179機。

特筆すべきは、八月二十七日に墜落して戦死するまでに、

一人でソ連機五十八機を撃墜して

「ホロンバイルの荒鷲」、

「東洋のリヒトフォーフェン」と言われた

篠原弘道少尉(二十六歳)である。

彼は、五月二十八日に、

「演習では殉職者が出るほど猛烈にやるのに

・・・戦闘なんてまったく普通の演習より楽だ」

と語っている。

つまり、日本軍パイロットの猛練習で習得した技量の高さはダントツだった。

このこと、同じ陸軍航空隊において篠原少尉の二年先輩で

同じ満州の空で猛訓練を続けていた

我が叔父東儀正博の為にも記しておきたい。

以上が、

第二十三師団がソ連軍機械化部隊を壊滅させて

スターリンを震え上がらせた戦果である。

しかし、

その命と引き換えに成し遂げた第二十三師団の

世界史を変える戦果を知らず、

二十三師団潰滅に腰を抜かしたのが東京の参謀本部である。

そして、八月下旬、東京の参謀本部は

十万人の増援部隊をノモンハンに送り込む決定をする。

この日本軍、十万人増強の報に接し、

スターリンは、焦るように日本軍との停戦を急ぐと同時に

西からドイツがソ連領に攻め込んでくる恐怖に駆られ

ドイツとの不戦条約締結交渉に入る。

そして、

一九三九年(昭和十四年)八月二十三日に成立したのが、

独ソ不可侵条約(モロトフ・リッペントロップ協定)だ。


我が国の平沼内閣は、この独ソ不可侵条約に驚き、

「欧州の情勢は複雑怪奇」との声明を発して総辞職するが、

この条約は、

実はノモンハンで戦う我が第二十三師団の将兵の驚くべき強さが

スターリンに締結させたものであり、

我が内閣は、

鑑に映る自分の姿に驚くように、

「ノモンハンの第二十三師団将兵が創り出した独ソ不可侵条約」

に驚いたことになる。


次ぎに、八月二十三日の独ソ不可侵条約締結の

八日後の九月一日、

ドイツは、突如、ポーランドに侵攻し、

英仏両国は、ドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まる。

その時スターリンも、

東のノモンハンにおける

九月十五日の日本との停戦協定が成立するや、

直ちにその二日後の十七日に、

ポーランドに東から抜け目なく侵攻したのだ。


このようにして、独ソ両軍は一九三九年秋以降、

ポーランドの真ん中で相接することになった。

これは、即ち、

二匹のサソリが一つのビンに入ったように、

独ソ開戦必至ということだ。

よって、スターリンは、

この独ソ戦を予想した上で、

東の日本との中立条約締結交渉を進め、

同条約が、

独ソ戦開始のニケ月前の

一九四一年(昭和十六年)四月二十五日に発効するや、

シベリア管区軍と極東軍を

東から西に移動させることに成功する。


他方、ドイツのヒトラーは、

西方への電撃戦によるフランス作戦終了の後には、

進撃開始から四ヶ月でモスクワを陥落させる

バルバロッサ作戦を立案し、

一九四一年六月二十二日にそれを発動して、

北のレニングラード、

南のウクライナ

そして中央のモスクワ

の三方面に向かって

ドイツ軍をロシアに雪崩れ込ませた。


この時、

イギリスの首相であったチャーチルは、

独ソ戦が開始されたこの時、

東から日本がソ連に進撃しておれば、

日本が勝利者となった、

と回顧している。


即ち、この時、ソ連を救ったのは

日ソ中立条約を守った東の日本だったのだ。

そして、四年後の夏、

スターリンは、日ソ中立条約を破って

満州、樺太そして千島に雪崩れ込んできた。

仮に六年前に

ノモンハンの日本軍が、ソ連軍機械化部隊を壊滅させて

スターリンに日本軍の強さを見せつけていなかったら、

スターリンの日ソ中立条約廃棄はもっと早く、

北海道まで、いや東北にまでも、

ソ連軍が侵攻していたであろう。

ノモンハンで潰滅した日本軍第二十三師団二万の将兵が

六年後の日本を救ったのだ。


さて、以上のソ連の動きを見て言えることは、

ソ連が一番恐れていることは、

ユーラシアの東西両面で

日本とドイツから同時に攻め込まれることだった。

その為に、ソ連のスターリンは、条約を駆使して、

それを日本に守らせながら

自らは平気でそれを破って利を得てきたのだ。


そこで、このソ連即ちロシアの

ユーラシアの東西両面で戦争することを本能的に嫌う性行を見て、

ソ連のKGB出身のエリートであるロシア大統領のプーチンに、

直ちにウクライナとの戦争を中止させる為の効果的な方策を提示しておく。

それは、我が日本が、突如、

スターリンに奪われた領土を取り戻す為に、

千島列島と樺太に攻め込んでロシア軍を追い払うとともに、

ウラジオストックを占領し、

沿海州に攻め込む構えを見せつけることだ。


これから、

さらに厳しくなる国際情勢においては、

我が国も、

直ちに、これくらいの軍事行動を

敢行する覚悟をして軍備を保持することが必要である。

西村眞悟FBより

日本日本日本🇺🇦🇷🇺

カメラカメラカメラ

昔の大阪の風景㉒


カメラカメラカメラ

笑笑笑


笑笑笑

欠かさず観てる番組ある?

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう

自宅にテレビ📺ありませんグラサン