ロシア・東欧における帝政ロシアを内部から崩壊させるという
極秘のたった一人の諜報謀略活動を展開して
大日本帝国に勝利をもたらし、
今なお護国の鬼となって
第七代台湾総督のまま台湾に眠る
陸軍大将・男爵明石元二郎閣下に深く敬意を表して
令和四年三月三十日 西村眞悟
我が国の歴史を振り返れば、日本を救う世界史的事件が、
筑紫の国福岡において二度起こっている。
その第一は、
博多に押し寄せた蒙古軍との戦いである。
即ち、弘安四年(一二八一年)、
ユーラシア大陸全域を支配するに至ったモンゴル帝国・元の、
五十万を超える軍勢を、
日本武士団が博多の水際で迎撃して潰滅させたことだ。
その第二は、
元治元年(一八六四年)、
福岡藩士の次男、明石元二郎閣下が、
福岡市大名町に生まれたことである。
第一の弘安の役の勝利が無ければ、
日本はモンゴル帝国の頸城の下で消滅し、
明治維新はあり得なかった。
しかし、日本は勝利することによって日本であり続け、
六百年後に明治維新を成し遂げ、
二十世紀に、
日露戦争と大東亜戦争を闘うことによって、
世界を覆う欧米の植民地解放と有色人種差別撤廃という
人類史的転換を成し遂げた。
よって、この出発点である弘安の役の勝利は、
世界史的事件なのである。
しかしながら、
仮に明石元二郎閣下が誕生しなければ、
明治三十七、八年の日露戦争の勝利は無く、
当然、
大東亜戦争による植民地解放と有色人種差別撤廃もなかった。
ここにおいて、明石元二郎閣下の誕生は、
まさしく日本の救国と人類史の転換をもたらしたといえる。
明治三十七、八年、
帝政ロシアに圧迫され苦しんでいる
ロシア西方のフィンランドやポーランドの諸民族を同志として、
密かに謀略活動を展開する
明石元二郎陸軍大佐の存在がなければ、
日露戦争において、日本はロシアに勝利し得なかった。
歴史は、そう断定している。
その日露戦争における隠れた救国の勇者である
明石元二郎閣下が、
大正七年七月から翌年十月二十六日に福岡に没するまで、
台湾総督を務められた。
その間、設立・建設のなった
台湾電力と東洋最大規模の日月潭水力発電所は、
現在も台湾の社会経済を支えている。
この台湾総督明石元二郎閣下は、福岡における臨終に当たり
「余の死体は台湾に埋葬せよ、
いまだ実行の方針を確立せずして、
中途に斃れるは千載の恨事なり、
余は死して護国の鬼となり、
台民の鎮護たらざるべからず」
と遺言された。
即ち、
明石元二郎閣下は、死して護国の鬼となり
台湾総督のまま、
台湾鎮護のために居続けると念じられた。
そして遺言に従って、
ご遺骸は十一月一日に帰台し、
総督府葬の後、台北市の三板橋墓地に埋葬された。
これほどの隠れた偉人、
日本と台湾の為に尽くされた無私の眞の英雄があろうか。
従って、
台湾第七代総督・陸軍大将・男爵明石元二郎閣下の顕彰碑が、
福岡県郷友連盟によって、
「敵国降伏」の御宸筆を神宝とする
筥崎宮に建立されたことの意義は、深く計り知れない。
台北市にある戦後には粗末な飲食店が並ぶようになった
三板橋墓地(現、林森公園)にある明石閣下の墓に一度、
その後、
移転先の新北市の福音山にある墓に
三度お参りに上がった者として、
閣下の顕彰碑を建立された
福岡県郷友会に敬意を表し、
お祝い申し上げる。
さて、我が国が蒙古の軍勢を博多湾で潰滅させた頃、
ユーラシアの西ではロシアがモンゴルに屈服し、
以後二百数十年間タタール・モンゴルに支配された。
しかし、織田信長と同時期に生きたイワン雷帝は、
ロシアをタタール・モンゴルの頸城から脱却させ、
以後、ロシアのツアー(皇帝)は、
タタール・モンゴルと同じ膨張主義の権化となって、
我が国の江戸時代の全期間を通じて東方への拡大を続け、
遂に一八六〇年(万延元年)、沿海州を獲得して、
西のバルト海から東の太平洋に至るユーラシアの大帝国となる。
そして、
太平洋を見たロシアは、
極東での絶対優位を確保することを狙い、
明治三十七年までに
十九万トンの太平洋艦隊を建造する。
西のバルチック艦隊の二十六万トンと黒海艦隊を合わせれば
ロシア海軍の保有する艦艇総数は四十五万トン以上である。
これに対し、
日本海軍は二十六万トンを保有するに過ぎない。
また、陸上の歩兵の総数で比べると、
日本陸軍はロシア陸軍総兵力の約九パーセントだった。
陸海軍とも、到底ロシアの戦力には及ばなかった。
その上で、
ロシア外務省文書には次のように記されている。
「須ク日本ヲ撃破シ、
ソノ艦隊保持権ヲ喪失セシメナケレバナラナイ。
・・・対日戦争デハ朝鮮ヲ占領シ、馬山浦ヲ前進根拠地トシテ、
日本人ヲ撃破スルノミニテハ不十分デ、
更ニ之ヲ殲滅セザルベカラズ」(平間洋一著「日露戦争が変えた世界史」)。
この時、ロシアのツアー・ニコライ二世は、
日本人を「マカーキー(猿)」と呼び、
ロシア軍将官は、
日本との戦争を「極東の軍事的散歩」と嘯(うそぶ)いていた。
しかし、日清戦争後のロシアの三国干渉に屈した我が国は、
文字通り臥薪嘗胆、
国力を絞り尽くして軍備増強に励んでいたのだ。
もちろん日本は、
平和を維持するためにロシアと交渉を続けていたが、
ロシアは交渉に応じながら、着々と、海軍艦艇を極東に回航し、
旅順に大要塞を建設すると同時に満州の各所で部隊の移動や陣地構築を進めていた。
よって、明治三十七年(一九〇四年)一月に、
イギリスの高名な軍事記者が
「あと三ヶ月もしたら日本軍に勝利の見込みはない。手も足も出なくなる」
と記した。
ことここに至って我が国は、
同年二月四日、
御前会議でロシアとの交渉打ち切りを決定し、
翌五日、動員令を下命した。
この日露の、絶望的な兵力の差を承知で、
対露開戦を決断した当時の政府・陸海軍首脳部、
即ち、明治維新の動乱を経験した
伊藤博文、桂太郎、山本権兵衛、大山巌、山県有朋、児玉源太郎らは、
何を以て、一条の勝利の光を見ていたのか。
それは、満州の戦場から遠く離れた
ロシア国内の騒擾化を図り
帝国を内部から瓦解させる謀略工作の為に、
彼らがロシア西方に密かに放った
明石元二郎大佐ただ一人の存在と力量と行動だった。
即ち、我が国首脳部に日露開戦を決断させたのは、
敢然と死地に赴く眼前の陸海軍将兵の存在とともに、
遙かユーラシアの西で極秘任務、謀略活動を展開している
一人の一人の明石元二郎大佐の存在であった。
明石元二郎大佐は、政府から出た巨額の活動資金で、
決して表にでることなく、
ロシアの国内の反ツアー、反ロシア運動を拡大させ、
さらにレーニンを逃避先のスイスから
ロシアに送り込んで革命運動を煽って拡大させ、
スイスで武器弾薬を購入して、
これら反ロシアの各党派および革命勢力に分配して
ロシア国内に不穏な反政府・反ツアーの雰囲気を醸成した。
その結果、
ロシアの軍隊にまで
革命蜂起や戦争サボタージュの動きが起こり、
ロシアは、兵力を十分に遙か極東の満州の戦場に遅れなくなり、
ツアー・ニコライ二世の戦争継続の意思を砕いた。
明石大佐は、
血の日曜日事件や
戦艦ポチョムキンの反乱にも
関与していたと言われる。
そして、始まる日露最後の決戦となった奉天の大会戦は、
明治三十八年三月一日に、日本軍が総攻撃を開始し、
三月十日に終結する世界陸戦史上最大の戦闘であり、
我が国の存亡がかかっていた。
ここで負けていれば、日本はロシアに征服され、
今生きる我らは日本人として生まれることはできなかったのだ。
従って、当然、この奉天大会戦に、
明石元二郎大佐の目に見えない
気力と脳漿を絞り尽くした巨大な祖国への貢献が刻まれている。
参加兵力は、
日本軍二四万九八〇〇名、ロシア軍三〇万九六〇〇名。
戦死者は、
日本軍一万六五五三名、ロシア軍八七五〇名。
捕虜は、
日本軍四〇四名、
ロシア軍二万一七九一名
らに失踪したロシア軍兵士七五三九名。
この日露戦争における国家の勝敗をかけた史上最大の陸上決戦において、
ロシア軍に捕虜と失踪者が総兵力の約一割、
合計二万九三三〇名もいたということは、
ロシア軍兵士の士気の低下を顕している。
そして、我らは、ここに、
遙か東欧における明石元二郎大佐の
たった一人の知られることのない活動の成果を見なければならない。
奉天大会戦の勝利つまり日露戦争における日本の勝利は、
黄塵に覆われた満州の荒野における二四万九八〇〇名の日本軍将兵の、
なかんずく
黄砂に埋もれて横たわった戦死者一万六五五三名の勇戦奮闘と、
遙かロシア西方の東欧における
明石元二郎大佐の孤独な奮闘によってもたらされたのだ。
日本の勝利は
満州の荒野における二四万九八〇〇名の将兵の
死を恐れぬ勇戦奮闘なければ起こりえないと同時に、
満州から遠く離れた
ロシア西方における明石元二郎閣下の
たった一人の勇戦奮闘がなければ起こりえなかった。
この意味で、日露戦争における日本の勝利が、
世界史を変えたのならば、
明らかに明石元二郎大佐ただ一人の存在が世界史を動かしたのだ。
よって、我ら日本人は、
明石元二郎閣下に深く感謝して、
筥崎宮に建立された閣下の顕彰碑を仰がねばならない。
本稿は、来る四月二十三日に筥崎宮において挙行される
陸軍大将 第七代台湾総督・男爵 明石元二郎顕彰碑完成式に配布される
「明石元二郎顕彰碑建立記念誌」に掲載される。
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