「北進という国家戦略」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 
ユーラシア西方のウクライナ情勢を観て、
大日本帝国が抱いていた
北進戦略について思いを致す。

本日は、八十六年前の未明、二・二六事件が勃発した日。
その事件を起こしたのは、陸軍皇道派の青年将校達。
その皇道派は、
天皇を戴く日本の文化と精神を愛する思いを共にする同志達であるから、
天皇を廃止して
日本の共産化を狙うソビエトを最大の仮想敵国として、
その撃滅を狙う北進論を唱える集団だった。
そして、八十六年後の現在、
折しもユーラシアの西のウクライナで
ソビエトで育ちソビエトの遺伝子を持つ
ロシアのプーチン大統領が、
あたかも大蛇が大きな口を拡げて獲物を飲み込むように、
北と南と東からウクライナを飲み込もうと武力侵攻している。
これ、八百年前に、
同じユーラシアの大地で
タタール・モンゴルが行った残忍な無法侵略と同じである。

しかし、我が国が北進戦略を発動して
昭和十六年六月二十二日の
ユーラシア西の独ソ戦の開始と同時に、
ユーラシアの東の日本が
東からソビエトに攻撃を開始していたら、
日独でソビエトを挟撃することとなり、
ソビエトは瓦解し、
現在のプーチンのウクライナ侵攻はなかった。

そこで、戦後は、
あたかも無かったかのごとく忘れ去られた
我が国が思い描いていた
「北進という国家戦略」
を見つめていきたい。
まず、
第二次世界大戦後にイギリスの首相チャーチルが、
「あの時、日本がソビエトに攻め込んでおれば
第二次世界大戦において日本が勝利者となる
唯一にして最大の好機であった。」
と回顧したことに注目すれば、
我が国が持っていた
「北進という国家戦略」は
帝国陸軍の夢想ではなく
世界を動かす救国の実践論であったと納得できる。
そして、
この北進軍を率いる軍司令官が、
石原莞爾将軍であったならば、
チャーチルが言うように
ソビエトは崩壊し、
そもそも中共は存在せず、
モンゴルは外モンゴルと内モンゴルを合わせた
一つの「モンゴル共和国」となり、
現在の新疆ウイグル自治区は
「ウイグル共和国」になり
現在のチベット自治区と
中共がチベットから奪った青海・四川・雲南の
東北チベットや東チベットが合わさった
広大な「チベット国」が存在しているであろう。

先日御紹介した
「中国から独立せよ・・・帝国日本と蒙・蔵・回」(集広舎)
という本は、
モンゴル・チベット・イスラム世界に飛び込んで
中国国民党と中国共産党を
中国外縁部に居住する
少数民族(モンゴル・チベット・ウイグル)
と連帯して包囲殲滅する戦略を実践するための人材を養成する
興亜義塾の塾生達の物語である。
塾生達は、
日本に帰らず現地の土になれと教えられた。
また、陸軍には特務機関があり、
特務機関員は人知れず現地に入り込んで仕事をする。
この多くの興亜義塾生と陸軍特務機関員が
我が国の北進戦略の為に、
ユーラシアの何処で何をしていたのか、
その全容は敗戦と共に連絡網が無くなり知ることができない。
しかし、昭和二十五年、
チベット潜入を繰り返していた二人の興亜義塾生が、
日本人とバレて刑務所で政治犯として八ヶ月を過ごした後、
日本に送還された。
彼らは、十二年ぶりに帰国してから、
外務省を訪れチベットの情勢報告をしようとしたが、
外務省は
「その必要は、まったくなし」と彼らを追い出した。
しかし、日本郵船ビルに入っていた
GHQはアメリカ極東軍参謀本部に、彼らを呼び出して
チベットの状況や人民中国の状況を
根掘り葉掘り聞き取ったという。
このように
ユーラシアの辺境で
我が国の北進戦略の為に現地に入り込み、
戦後、国家に「棄民」にされた
興亜義塾生や特務機関員という日本人は多数いたのだった。

二・二六事件の後、
陸軍内の皇道派は粛正され、
統制派が陸軍を牛耳るようになったことは
痛恨の国家的損失であった。

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