太古からの日本人に戻って戦おう。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

沖縄は、

昭和四十七年(一九七二年)五月十五日に、

祖国日本に復帰した。

よって、来年の令和四年(二〇二二年)は

沖縄の祖国復帰から五十年にあたる。

そこで、

沖縄県祖国復帰50周年記念映画

「美ら海(ちゅらぅみ)の光」

を制作して(監督 野伏 翔)

後世に祖国復帰の心を長く伝えようとする運動が開始された。

そして、十二月十八日、大阪の難波で、

映画「美ら海の光」制作実行委員会主催の

映画制作実現のための「国民集会in大阪」が開催され

私は、冒頭の応援メッセージを依頼された。

そして、自分の沖縄体験を語った。

以下は、その時に語った話を中心にした

令和四年の激動の東アジア情勢だ。


・・・     ・・・     ・・・     ・・・


昭和四十三年八月、二十歳の私は、独りで

自宅近くの国鉄阪和線三国が丘駅で、

「稚内」と言って切符を買い、

北海道稚内西方六十キロの海上に浮かぶ礼文島に渡った。

そして礼文島の北端のスコトン岬まで歩き、

その岬の尖端から飛び石のように出ている岩礁に立ち、

ソビエトめ、領土を返せ!

と北の樺太を睨んだ。

いくら叫んでも、

聞いているのはカラスの群れだけだった。

ただ、古い木造の鳥居だけが風に吹かれて立っていた。

そして、島の南にある宿に帰ると、

同じ年頃の沖縄から来たという青年に出会った。

私は彼に尋ねた。

「沖縄はどんなところだ」と。

彼は、答えた。

「沖縄は日本だ・・・日本だ。」

そして、無念そうに続けた。

「しかし、日本でないところだ」と。

それから私は、

この沖縄から来た青年の思いを、

自分の思いとして大阪に戻った。

その二年後、

私は、民社党の委員長をしている父(西村榮一、明治三十七年生)に

「沖縄は返還されるか?」と尋ねた。

父は「必ず還ってくる」と確信を以て答えた。

その頃、民社党は、

帝国陸軍中尉であった

民社党の衆議院議員岡澤完治(陸士五十七期、大正十二年生)らを沖縄視察に派遣していた。

父によると

旧軍将校なら沖縄のアメリカ軍基地を見れば

内実がよく分かるからだという。

そのうえで、民社党は、

ズバリと「沖縄の本土並み返還」を提唱した。

政府与党も、

現実に返還を実現しようとするならば、

この「本土並み返還」に近寄って来ざるを得ない。

反対にその頃の野党社会党などは、

沖縄の「即時無条件全面返還」を訴えていた。

これは、沖縄の現実的な返還を拒否し、

中共とソ連の為に日米離反を画策するに等しい。

しかし、

その頃の沖縄の祖国への帰還運動は

左翼運動ではなく、

日の丸の旗が林立する中で行われる民族運動だった。

無念ながら、その頃、父は

慈恵会医大病院に入院していたが、

度々、若泉 敬氏が病室を訪れていた。

つまり、民社党委員長の父は、

若泉 敬氏と打ち合わせの上(佐藤総理と打ち合わせの上)、

沖縄返還運動をしてきたのだ。

そして、

遂に、昭和四十七年五月十五日、沖縄の祖国復帰は実現した。

即ち、「本土並み返還」が実現したのだ。

しかし、父は、

沖縄の祖国復帰を見ることなく

前年の昭和四十六年四月二十七日死去した(享年六十七歳)。

また、

党の命を受けて度々沖縄へ視察に行った岡澤完治も、

沖縄が祖国に復帰した一ヶ月後の六月二十六日に死去した。

まだ四十九歳だった。

私の女房は、この岡澤完治の長女だ。

つまり、私の実父と岳父の二人の父は、

ともに沖縄返還運動の中で没した。


そこで、現在の沖縄の問題は、

この沖縄の本土復帰から始まったと指摘しておく。

即ち、沖縄の「本土並み」返還だから、

沖縄も本土並みの「スパイ天国」になったということだ。

アメリカに亡命したソビエトのスパイは

アメリカ議会で「日本はスパイ天国」と証言した。

つまり、日本には諜報機関、工作機関が無いのだ。

従って、現在、

沖縄で活動している中共のスパイと工作員も、

「日本は天国」だと思っているはずだ。

復帰前には、

沖縄にあれほど林立していた「日の丸の旗」は

復帰後は消え、

現在は「赤旗」が林立し、

マスコミも中共の人民日報化している。

これ、日本本土沖縄における

中共と左翼のスパイ工作活動の成果である。


そこで、十五年ほど前になるが、

私は、ここにいる仲村覚さんと共に那覇で

「日の丸」と「星条旗」を掲げて

十キロほど歩くデモをした。

その時、

兵隊を満載したアメリカ海兵隊の車両が通りかかったが、

アメリカ兵は、おおやってくれたー!

と、車上から笑顔で我々に手を振り、

我々も歩きながら拳を振り上げて応じた。

これが同盟国の国民同士の交流だった。


最後に、中共の戦略を明言しておきたい。

現在、中共は、台湾に侵攻すると盛んに言われており、

中共もそれを否定せず、

台湾海峡に、日本と国際社会の関心が集中している。

だから、

中共は、まず台湾に軍事侵攻する

と思ってはならない。


中共は、まず、

もっとも奪いやすい尖閣に侵攻する。

「日本国憲法」で縛られた我が国内閣は、

自衛隊に

中共軍に対する先制攻撃を下命することができないから、

中共軍は抵抗を受けることなく魚釣島に上陸できる。

その時、

尖閣周辺海域には五百隻を超える

中共の「軍艦」と「漁船」(実は便衣兵)が

雲霞のようにひしめきあって

尖閣を取り巻いている。

そして、中共軍は魚釣島にミサイルを揚陸して

一挙に同島をミサイル基地にして

ミサイルの照準を沖縄本島と台湾に合わせる。

アメリカの空母打撃群は、

沖縄と台湾に近寄り難くなる。

すると同時に、沖縄本島において、

中共の工作活動によって準備されていた国籍不明の集団による

「琉球国独立宣言」が為され、

その集団が琉球国の旗を掲げて

那覇中心部のビルに立て籠もり、

中共政府に「琉球国」の承認と

日本軍国主義者からの保護を要請する。

すると、中共の全海空軍は沖縄本島の廻りに集まってくる。


中共の目的は、

台湾と沖縄本島を奪うことなのか?

私は、違うと思う。

中共の目的は、

沖縄本島を奪うことによって日本を屈服させ、

全東アジアを奪うことにある。


大東亜戦争において我が国は、

沖縄本島をアメリカ軍に奪われ

シーレーンを閉ざされることにより屈服した。

日本人より中共の方がこのことをよく知っている。

従って、中共も、七十年前のアメリカ同様、

沖縄本島を奪いシーレーンを閉ざして

全日本を屈服させようとする。

このための、

最も少ない費用で、最も効果がある「最初の一手」が

「尖閣奪取」

なのだ。


そこで、最後に指摘しておきたい。

尖閣を守り抜くことは、

全日本と台湾と東アジアを守ることだ。

沖縄を守ることは

全日本と台湾と東アジアを守ることだ。

迫ってくる令和四年は、

我が国が

東アジアを守り

東アジアに「万民保全の道」を敷く為に、

断固、中共軍と戦う年となる蓋然性

極めて大である。

その時は、

元寇以来の日本人の血を甦らせ

団結し断固戦わねばならない!!

岸田内閣が頼りないならば、

引きずり下ろそう。

そして、

「日本国憲法」無効宣言をする内閣を結成し、

太古からの日本人に戻って戦おう。


思い起こせば、

西ドイツのヘルムート・シュミット首相は、

ソビエトから中距離核弾頭ミサイルSS20を

突きつけられたとき(一九七七年九月)、

国民に、

「赤になるより死ぬほうがましか?」

「死ぬより赤になるほうがましか?」

と問いかけ、

国民が

「赤になるより死ぬほうがましだ!」

という答えを出すのを受けて、

直ちに、

アメリカから中距離核弾頭ミサイルパーシングⅡを導入して

モスクワに向けて実戦配備し、

相互確証破壊の態勢を造った。

即ち、お前が撃つなら確実にお前を殺すという体制を造り、

モスクワにSS20の撤去を迫った。

そして、遂に、ソビエトはSS20をモスクワから撤去した。

諸兄姉、

「中共の下で生きるより死ぬほうがましか?」

「死ぬより中共の下で生きるほうがましか?」

我らは、正々堂々と、

「中共の下で生きるより死ぬほうがましじゃ!」

と叫ぼうではないか!

そこに我が国の活路が広がり、

同時に中共崩壊の道が開く。


西村眞悟FBより

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寒ブリうお座の季節になりましたねーニコニコ

ブリしゃぶ、刺身、ブリ大根美味しいですね。