晩秋の本州北端、
青森市の三内丸山遺跡と八戸市の是川旧石器時代遺跡の
二つの縄文遺跡を訪れてきた。
我々、昭和三十年代に中学生であった世代の
「日本の歴史」の教科書は、
日本の歴史の始まりを、弥生時代からとしていた。
つまり、弥生時代に朝鮮半島からの渡来人が
稲作農耕を伝えて我が国の文明が始まった。
それまでは、縄文時代という
狩猟採集生活の定住地がない文明もない土人が生きている
未開の時代だった、と教えられた。
それ故、
ある名の知られた政治家は、
十年ほど前の得意の絶頂期に韓国に行って、
日本の文明は、総て朝鮮から教えられたもので、
天皇も朝鮮から渡来した人の子孫だ、
これは仁徳天皇陵を発掘すれば明らかになる、
と講演したという。
まったく、無知もここまでくれば、国辱的だ。
よって、我が国の歴史をさらに遠く太古まで振り返って、
我が国の太古に実感をもっておかねばならないと思い、
青森の山内丸山遺跡に赴き、
数万年前から生い茂っている落葉広葉樹林に覆われた
五千年前の先人達が住んだ跡、
そして漆の櫛で綺麗に髪を整え
貝のイヤリングをした
美しい縄文の乙女達がいた広場に佇んで来たわけだ。
実は、近年の我が国の考古学徒の活動は目覚ましく、
今日までに北海道から沖縄までの日本列島全域から
膨大な数の縄文時代の遺跡が発掘され、
それ以前の旧石器時代の遺跡も多数発掘されてきた。
その結果、
東京武蔵野大地の関東ローム層の中から、
約三万二千年前から三万年前の
世界最古の多数の磨製石器(石斧)が発見された。
また青森県の太平山元遺跡から
一万六千五百前の世界最古の
調理した痕跡のある土器片が発見された。
さらに、
北海道函館市の縄文集落にあった土癀墓の痕跡から、
九千年前の漆を塗った赤い糸で編んだ装飾品が発見された。
それは髪飾り、腕輪そして肩当てであった。
さらに福井県鳥浜貝塚から
一万二千六百年前の赤色漆塗櫛が発見された。
これは世界最古の漆塗製品である。
この漆はDNA分析で日本固有種であることが判明している。
このように日本列島からは、
世界最古の土器と磨製石器と漆製品が発見されている。
このことは、日本列島が
太古の世界最先端技術を生みだしている地域であったことを示すものだ。
また、北海道洞爺湖町の入江貝塚から
はポリオ(筋萎縮症)にかかりながら
介護を受けて二十歳くらいまで生きた人の骨が出土している。
また青森県の大石平遺跡からは
縄文時代の親が一歳前後の子供の手や足を粘土に押しつけて手形や足形をとり、それを焼いて固めた土版が出土している。
親の子供に対する、
今も太古も変わらない情愛が滲み出たものだ。
よって、この度、北海道と北東北の
十七の一万五千年前から二千四百年前までの
縄文時代遺跡群が世界遺産に登録されたが、
その理由は次の通りである。
即ち、
一万年以上もの長期間継続した狩猟、漁労、採取を基盤とした
世界的にも希な定住社会であること、
農耕社会にみられるように土地を大きく拡大させることなく、
永続的な狩猟、漁労、採取の生活の在り方を維持したこと、
子供の手形や足形、遮光器土偶、環状列石の遺構で明らかな
精緻な精神文化を伝える類い希な物証があることだ。
そこで、今一度、
日本列島全域に広がる縄文遺跡群を振り返ったうえで
確認しておかねばならない。
北海道と北東北の遺跡群だけが、
世界遺産登録の理由を持っていて、
他は持っていなかったのではない。
日本列島全域が、
山内丸山の人々の一万年間の定住生活を可能にした
落葉広葉樹林と海と川と同様の
豊かな風土と生物多様性をもっていたのだ。
列島の南の九州南端では、
三万年前に姶良カルデラの大噴火があり
霧島には厚さ三十㍍の岩塊が堆積して
鹿児島湾の現在の地形ができあがり、
さらに二万六千年前に桜島が爆発して誕生したのだが、
その直下の霧島の国分に、
近世から縄文早期前葉までの複合遺跡があり、
九千五百年前からの
大規模な定住集落が発掘されたのだ。
よって、私の判断は、次の通りだ。
北海道と北東北だけではなく、
日本列島全体の縄文遺跡群が、
世界遺産登録に値する
世界的にも希な
狩猟、漁労、採取の生活を維持する定住社会であった。
そして、
我が国の縄文遺跡群に闘争(戦争)の痕跡はないのだ!
即ち、一万年以上、
豊かな精神世界をもつ人々の平和な縄文日本があったのだ。
では、
この、世界的にも希な定住生活を続けていた
縄文人達は何処に行ったのか。
その答えは、
彼らは何処にも行かず、
現在の我々の血の中にいる!
彼らは日本列島から外へ出て行かなかった。
即ち、
この豊かな一万年以上続く縄文日本から
現在の、
万世一系の「天皇を戴く一つの家族の国」、
「日本」と
日本の肇國の理念「八紘為宇」が生まれた。
現生人類(ホモ・サピエンス)は、
約二十万年前にアフリカ大陸に出現した。
そして、
アフリカからユーラシアに進出して
西と東に向かう群れに分かれ、
また南のインド・オーストラリアに向かう群れに分かれた。
そのなかで、ユーラシアをひたすら東に向かう人々と、
ユーラシアの南から北東に吹く風に乗って海を渡った人々が
極東の日本列島に辿り着いた。
彼らは、一万年以上の間、
狩猟と漁労と採取で定住生活ができる日本に来たので
日本列島から外に出る必要は無かった。
また、
東に向かうということは、
太陽が昇る旭日の方向に向かうということだ。
アゼルバイジャン共和国のカスピ海西岸のコブスタンに、
二万年から五千年前までの間に岩に刻まれた膨大な絵がある。
その岩絵のなかに
カスピ海を東に向かう船が描かれているものがあり、
その船の尖端には明らかに「旭日旗」が刻まれている。
この船は、日本人の先祖の船か!?
日本人は、この船のように、数万年にわたって、
旭日の方向に進んだ人々だ。
従って、
「日章旗」と「旭日旗」は、
日本民族の血に根ざした旗である。
山内丸山遺跡と八戸の是川遺跡、
豊かな漆の生活具が印象的だ。
その櫛から想定される女性の髪型。
そして、土偶。国宝だ。
【竹田学校】
歴史・縄文時代編15縄文都市三内丸山遺跡
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