「無効を掲げた政党」の議席獲得 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

八月十五日、
雨の靖國神社の拝殿に向かって
傘をさした参拝者の静かな列が
二の鳥居を超えて百㍍以上並んでいた。
十五日の朝、
大阪は雨だったが、予報は昼には晴れると伝えていた。
その雨の大阪を出発して、
雨を追いかけるように、雨の東京駅に着いた。
そして、雨の靖國神社で、
傘をさした静かな長い長い参拝者の列の横ととおり、
昇殿参拝者が待機する参集殿に向かった。
本年もウイルス禍による神社側の要請で
大人数での参拝は控えられたが、
小さいお子さんたちが、
お母さんに抱っこされたり、
手を握られたりして参集殿に来られていた。
嬉しかった。
「騒ぎますから」
と若いお母さん方は遠慮されたが、
参拝の最前列に、
小さいお子さんとお母さんに出て頂いた。
そして、皆に言った。
英霊は、小さいお子さんを、
抱きしめたくても抱きしめられなかった方々ですから。

・・・      ・・・      ・・・

参拝を終え、三々五々別れたが、
少人数が竹橋で集まり恒例の講演会を行った。
その時、配布した私の話の骨子を次に記しておきたい。
特に
「第四、『日本国憲法』の無効確認の具体的方策」
に注目されたい。

         記

Life is too 
short to be small.
To cut the Gordian Knot!

令和三年八月十五日、靖國神社参拝の後 西 村 眞 悟

西田幾多郎の御進講における言葉
我が国における「維新」とは、常に「復古」でございます。
西田の言葉は、日本の根底に
普遍的で根源的なものが存在することを前提にしている。

(第一、 明治維新)
「王政復古の大号令」・慶応3年12月9日と
戦死者の慰霊は不可分
新政府太政官布告「御沙汰書」・慶応4年5月10日
→湊川神社・靖國神社
◎癸丑(みずのとうしのとし、嘉永六年)以来→未曾有之國難
叡慮→王政復古=國威挽回之御基=諸事神武創業之始ニ原
○大政御一新の折柄、賞罰を正し、節義を表し、天下の人心を興起遊ばされ度、
既に豊太閤・楠中将の精忠英邁、御追賞仰せ出され候

(第二、令和の御代の維新)
◎昭和二十年九月二日以来の「占領状態」と「占領軍の憲法」
→「未曾有の國難」
決断→国威挽回之基=諸事神武創業之始ニ原=日本国憲法廃棄と「不文の憲法の復活」
○靖國神社の国家護持  参考・・・米国アーリントン国有墓地
米陸軍第三歩兵聯隊による24時間警護、銃を担って21歩の歩行、21秒の静止
・戊辰戦争の幕府軍、彰義隊、会津、白虎隊、新撰組、神風連、佐賀の乱、西郷軍
・大村益次郎像を撤去し、
皇女和宮、西郷隆盛、勝海舟、山岡鉄舟像の設置

(第三、不文の憲法=歴史と伝統のなかに存在している)
「我が家は城である。風や雨は入ることができる。しかし、国王は入ることは出来ない。」
英国、ウイリアム1世ノルマン王朝創設(1066年)以来40代エリザベス2世
我が国、神武創業以来、万世一系、126代の今上陛下
成文憲法の歴史・・・「死んだ法」と「運用面」の隔たりとの相剋→戦争、内乱、革命
仏国、1791年の成文憲法から1958年のド・ゴール憲法まで15回の変遷
独国、1867年の北ドイツ連邦憲法以来、制定改廃の繰り返し
○ドイツが残した唯一の教訓=ドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)
「占領中に制定せられた法律は、占領解除後は無効とする」

(第四、「日本国憲法」の無効確認の具体的方法)
根本・・・国民一人一人の自覚=無効確認、
公的確定・・・「無効を掲げた政党」の議席獲得
先例・・・
「教育勅語無効決議」昭和23年6月19日、
衆参各院で通常決議

西村眞悟FBより


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