ヨハネ・クヌッセンと海防艦第三十号 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

二十一日、朝から、

一気に和歌山の御坊まで南下し、

日高川河口から海岸を日之岬灯台まで走り、

それからリアス式海岸沿いに北上し、

学生時代に興国寺で坊主のような生活をしていた由良町、

次に戦前の国定教科書によって全国の子供達に知られた

濱口梧陵の「稲むらの火」の地である広川町

そして

若き明恵上人が島々を眺めて修行をした湯浅町に至り、

有田川河口付近から有田川左岸を東に走る国道42号線をへて

有田川中流域の

明恵上人が生まれて八歳まで過ごした山と川の地に参り、

堺に戻った。

運転は、十代の頃からサーフィンを担いで波を求めてこの海岸をうろついた岸和田の岸村隆さんが、

我が領域であるかのごとく引き受けてくれた。

小生は、三十七・八年ぶりに納屋から引っ張り出した

オプティマスのコンロで岬の上で湯を沸かし、

二人で海を眺めてコーヒーを飲んだ。

途中、昨年訪問した

美浜町の煙樹海岸沿いにある陸自和歌山駐屯地と

由良町にある海自由良基地分遣隊の様子を見て通った。

陸自和歌山駐屯地は、

水陸両用車両を保有して陸上ではなく

水の中で戦闘行動を展開する水際障害中隊が駐屯する。

海自の由良基地分遣隊は、

北西の阪神基地と連携して南から大阪湾を守る要衝にある。


また、日高町の港と由良町の港で、

心に残る二つの「顕彰碑」に接した。

日高町の港の高台に

「クヌッセン機関長遺骸発見之地」

と刻んだ石柱が立てられている。

その石碑の背後に、

クヌッセン機関長と共に漂着した壊れた救命艇を保管した記念館があり、

右手には、

日高町教育委員会の

「ヨハネ・クヌッセン顕彰文」が啓示されている。

その趣旨は次の通り。


一九五七年(昭和三十二年)二月十日午後九時四十分頃、

日之岬北々西5マイルの風速20㍍の洋上で

名古屋から神戸に向かうデンマーク船籍船エレン・マークス号は

機帆船高砂丸が火災を起こしているのを発見し、直ちに高砂丸に接近し、

救命艇を下ろして乗員を救命しようとしたが、

強風の中、極度の疲労のために高砂丸の乗員が救命艇の縄はしごを登ることができなかった。

それを見た、ヨハネ・クヌッセン機関長(三十七歳)は、

乗員を助けようと海に飛び込んだ。

しかし、強風のために助けられず、高砂丸の乗員もクヌッセン機関長も波にのまれた。

翌十一日早朝、日高町田杭海岸でクヌッセン機関長の水死体が発見され、

救命艇も氏の遺体からほど遠くない海岸に漂着していた。

私たちは、クヌッセン氏の

国境を越えた深い人類愛に燃え身命を賭して救助に立ち向かった勇猛果敢な行為を

広く顕彰するために、この救命艇をここに保存し威徳を後世に伝えるものである。

1960年(昭和35年)11月

故機関長 ヨハネ・クヌッセン氏遺徳顕彰会

1976年(昭和51年)10月

日高町教育委員会




次の顕彰碑は

由良湾の海自由良基地分遣隊から北東に三百㍍ほど海を隔てた岸に建てられた碑だ。

要旨次の通り、


昭和二十年の夏、大戦もいよいよ末期となり、

本土主要都市は敵機の空襲により焦土と化しつつあった。

海防艦第三十号(艦長楠見中佐以下百八十五名乗組)は、

この約百㍍宮の鼻海岸沖約二十㍍の海面に係留し、

決死の覚悟で敵機の来襲に備えていた。

七月二十八日午前九時敵のグラマン艦上機が来襲、

同艦は由良基地および由良町の被害を食い止めんと孤軍奮闘し、

自ら敵の攻撃目標となって、終日数回にわたり、

延べ実に八十数機の集中攻撃を受け

全艦火の玉となって力闘したるも、

遂に抗しきれずマスト折れ艦橋飛び、

弾尽きてついに大火災を起こし沈没した。

艦長以下六十六名は壮烈なる戦死をとげ、

その他の将兵もことごとく重軽傷を負った。

護国の神と散った戦死者の遺体は

戦友たちの衷情の涙のうちに開山興国寺において手厚く仮埋葬された。

ここに祖国の平和と繁栄を信じ

勇戦奮闘、鬼神も泣く壮烈なる最期を遂げた六十六勇士の殉国の精神をたたえて

波静かなるこのゆかりの地に碑を建て

御霊魂永遠に安かれとその冥福を祈るものである。

発起人 由良町糸谷区有志



このように、

日高町のクヌッセン機関長の碑と

由良町の海防艦第三十号乗組員の碑

を見たのであったが、

心に響いたのは、これらの碑が

それぞれ、

デンマーク船エレン・マークス号のヨハネ・クヌッセン機関長の

国境を越えた深い人類愛と身命を賭して救助に向かった勇猛果敢な行為を顕彰する為に、

海防艦第三十号の楠見艦長以下六十六名の乗組員の

鬼神も泣く壮烈な最期を遂げた殉国の精神を

たたえて冥福をいのるものであったからだ。

最近の、

彼ら英霊を高みに立って眺めるが如く

「犠牲者」として憐れんでやり過ごす風潮の蔓延に

義憤を感じつつあった昨今、

紀州の海辺で、

慰霊と顕彰という心情の原点に基づく

二つの顕彰碑を拝して心にしみた。


以上の通り、

二十一日に紀州の山と海を見たのであるが、

遙か思い起こせば、

この紀州の海での文字通りの、

一期一会を、

生涯、心に深く刻んでおられた尊いお方がおられる。

そのお方は、昭和天皇だ。

昭和天皇は、

二十歳代の最後の年にあたる昭和四年六月一日、

伊豆の大島から戦艦長門に乗って

紀州の田辺湾まで南方熊楠に会いに来られた。

この行幸を、

昭和天皇実録は、昭和四年五月二十八日、

「府下八丈島及び大島並びに和歌山県下お立ち寄り、

大阪、神戸行幸につき、八時五分御出門」

としているが、

昭和天皇の主目的は

「南方熊楠がいる和歌山県下お立ち寄り」にある。

昭和天皇は、二十八、九日、八丈島、大島行幸を終えられ、

四月三十日六時三十八分、

御召艦戦艦長門で大島から和歌山県田辺湾に向かわれる。

六月一日午前八時、長門田辺湾に投錨


以下、昭和天皇実録による

九時御上陸、降雨、海軍マント着用、

京都大学臨海研究所ついで神島に御上陸、

南方熊楠より説明を聴取、

ついで畠島に御上陸

五時四十五分、長門御帰艦、

南方熊楠より約三十分の講話

六時三十分、田辺湾出航 十時串本沖投錨


そして、翌日、串本では、徒歩にて

トルコ軍艦エルトゥールル号遭難記念碑にお成り御会釈

六月三日、六時二十分、串本出航

六月四日、七時三十分、大阪着

六月八日、七時三十分、

艦上にて南方熊楠の弟子小畦四郎から

粘菌に関する講話を三十分、

次いで粘菌に標本の献呈を受けられ、

九時、神戸より横須賀に向かわれる。

以上が、実録が記した

「和歌山県下お立ち寄り大阪、神戸行幸」

の中身である。


そして、三十三年後の昭和三十七年五月二十三日、

昭和天皇は白浜に行幸され、

御泊所の古賀之井から北方の海に浮かぶ神島を眺められ、

「南方熊楠と御散策になった神島を望み次の御製あり」(昭和天皇実録)

雨にけぶる神島を見て紀伊(き)の国の生みし南方熊楠をおもふ

と詠まれた。

昭和天皇は御製に南方熊楠という民間人の名を入れられた。

これは希有なことである。


また南方熊楠は、

行幸の翌年の昭和五年、神島に行幸記念碑が建てられた時、

次の歌を詠んだ。


一枝もこころして吹け沖つ風

わが天皇(すめらぎ)のめでましゝ森ぞ


以上、南方熊楠はもちろん、

昭和天皇は、昭和四年六月一日に、

小雨降る神島で待っていた南方熊楠を生涯覚えていておられた。

この日、天皇が

島から艦に戻られたのは午後五時四十五分であり

艦が田辺湾を出航するのが六時三十分である。

この間四十五分間、この慌ただしい中で

昭和天皇は三十分間、

南方熊楠の講話をお聞きになっているのである。

また、

昭和天皇が、六月八日、神戸から横須賀に向けて

海軍軍楽隊の演奏の後で出航されるのは九時である。

しかし、この慌ただしい時にも、

昭和天皇は、七時三十分から南方熊楠の弟子に

三十分間謁を賜り粘菌の話を聞いておられる。

やはり、昭和天皇にとって、

昭和四年五月二十八日から六月八日迄の行幸は、

南方熊楠に会うのが主目的であったのだ。

そして、

御生涯を通じて南方熊楠を偲ばれたであろう。

このことを思う度に、

昭和天皇の底の知れない暖かさと

尊いご人格を思う。


西村眞悟FBより

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