『西郷南洲』という思想 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 
自宅の屋根に三年間、
ブルーシートを被せていた訳に関して、
次に犬の玄を連れての散歩のスタイルに関して、
西郷さんの名を出したので、
西郷さんに関して一言しておきたい。

それというのも、
NHKが、西郷どんを描いた大河ドラマで、
西郷さんの最後をめちゃくちゃにして放送したので、
一言せざるを得ない。
私は、西郷さんと
一緒にいるような思いになるときがあるからだ。
NHKの放送した西郷さんの最後は見ていない。
しかし、見た人から聞くと、
西郷さんは、
地面に寐て上を向いて微笑むようにして亡くなった
と放映されたという。
これは、
西郷の生涯を全く分かっていない者の映像である。

西郷さんが最後に通った
城山の岩崎谷洞窟から岩崎谷を下る道は、
今でも通った人なら分かるが、
城山を包囲して
岩崎谷を見下ろす位置にいる官軍から丸見えの道である。
また、ここを下って岩崎口に至ると私学校の裏手に通じ
官軍の第四旅団が待ち構えていた。
西郷さんは、敢えて、この道を、
桐野、村田、別府ら四十名で進んだのだ。
官軍は西郷さんの右手の谷の上から
弾丸を雨のように打ち下ろした。
また、官軍は西郷さんの遺体の検死をしているから
銃弾が西郷さんの脇と股を貫通したことも明らかである。
この銃弾を受けて西郷さんは、どっと倒れ、
介錯をさせるために同行させていた別府晋介に言った。
「晋どん、晋どん、もうここらでよか」
そして、
西郷は東方を向いて座らせてもらい
両手を合わせて、
明治天皇に最後の挨拶をした。
別府晋介は、西郷の左後方に近寄り、
一礼して抜刀し、
薩摩示現流、刀を高く振りかざし、
「御免なったもんせ!」
と叫び、刀を振り下ろした。
別府は、西郷の下僕に、
首を敵に発見されないように隠せと指示し、
岩崎口に辿り着き、
「先生は既に逝かれもした。先生と一緒に死にもんそ」
と絶叫して敵を斬りまくり討ち死にした。三十歳。

江藤淳は、
この西郷の最後の行進と死に様を次のように書いた。
「王師に背き、国民に背いて数万の犠牲者を出し、
そのことによってのみ
天子と国民に尽くす道があることを天下に明示するためには、
尋常に戦死する以外にどんな死に方があろうか」

西郷の遺体検案書
創所 頭体離脱 右大腿より左骨部貫通銃創 右尺骨部旧刀創 陰嚢水腫
また、
西郷没後に鬼のような壮絶な奮闘のすえ斃れた
桐野の凄まじい遺体検案書を記しておく。
桐野も喜ぶと思う。
創所
左大腿部内面銃創、右頚骨刀傷、左中指切断痕、下腹部より腰部貫通銃創
前部よりこめかみへかけて貫通銃創、左前頭より傾頂部へ刀傷
以上、
医師である西村正氏著「明治維新に殺された男」より。

西郷の首も発見された。
首実検をしたのは山県有朋である。
彼は首を洗わせて両手で受け取り旅団長を顧みて言った。
「なんという立派な死様だ。
日頃の温厚な容貌と少しも変わっていない。
これが二百四日のあいだ、
一日として我が輩の心を安んぜしめなかった人の顔だろうか」

そして、この情景を江藤淳が次のように観た。
「このとき実は山県は、
自裁せず戦死した
西郷南洲という強烈な思想と対決していたのである。
陽明学でもない、『敬天愛人』ですらない、
国粋主義でも排外思想でもない、
それら総てを超えながら、
日本人の心情を深く揺り動かして止まない、
『西郷南洲』という思想。
マルクス主義のアナーキズムもそのあらゆる変種も、
近代化論もポストモダニズムも、
日本人はかつて
『西郷南洲』以上に強烈な思想を
一度も持ったことがなかった。」

西南戦争が始まっても西郷の人気は絶大で、
国民は西郷に大きな期待を持っていた。
そして、東京では、
西郷への期待のあまり
空に「西郷星」が輝いているという話が広がった。
首実検をした山県有朋は、
この目の前の西郷を恐れ怯えた。
それ故、
臆病者なくせに功名を求める山県は、
西郷の胴体の上部に西郷の首を立てて置かせ、
大勢の官軍兵士の見せしめにした。
即ち、
山県は西郷を晒首したのだ(西村正氏の前記著書より)。
いつの時代も、
特に長州の生き残って栄達する奴には、
こういう奴が多い。
また、私は、
引用した江藤淳氏の考えに、心より賛同している。

ビーグル犬しっぽビーグル犬あたま犬

玄(母紀州犬、父アイヌ犬と琉球犬のミックス)が生まれて一年が経つ。
始めは、こういうスタイルで散歩しようと思っていた。





世界の女性兵士👩‍⚖️


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暑い日に食べたい物は、井村屋のあずきバーです🍦🍦🍦😀