陸軍記念日と海軍記念日 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

「陸軍記念日」と「海軍記念日」を復活が
日本の抑止力を格段に高める

親が生きた時代を現代史というならば、
明治三十八年に生まれた親父をもつ小生にとって、
帝政ロシアとの明治三十七・八年戦役、
日露戦争は、まさに我が現代史の冒頭だ。
そして、今、三月五日は、
明治三十八年二月二十五日から始まった
世界陸戦史上空前の大兵力となった
奉天の会戦において、
日本軍が総攻撃を開始した
三月一日から三月十日の終結まで、
まさに今、正念場に差しかかっている時だ。
参加兵力、日本軍二四万九八○○、ロシア軍三○万九千六○○
砲数、日本軍九九○門、ロシア軍一二○○門
日本軍損害、戦死一万六五五三、負傷五万三四七五、捕虜四○
ロシア軍損害、戦死八七〇五、負傷五万一三八八、失踪二万九三三〇(捕虜含)

この会戦の特異な点は、
少数の日本軍が優勢なロイシア軍を
両翼から包囲しようとしたことだ。
特に日本軍最左翼の
乃木希典軍司令官率いる第三軍は、
死に物狂いでロシア軍最右翼の北に突出して回り込み
三月九日、奉天城内を眺める地点に到達し、
そこに三十万のロシア軍が集結して
シベリア鉄道で西に退却していくのを眺める。
満州軍作戦主任参謀は、第三軍参謀に電話して、
第三軍に進撃を命じ、
「長蛇を逸すべからず!」と督戦した。
第三軍参謀は、憤然として、
「長蛇が逸するを待ちつつあり!」と答えた。
既に砲弾がなく、
退却戦の上手いロシア軍の退路を断つことが出来なかったのだ。
他方、
ロシア軍のクロパトキン総司令官と幕僚は、
両軍の百キロにわたる前線で、
昼夜連続して休みなく行われる日本軍の攻撃に接し、
日本軍は膨大な予備兵力を持っていると思い込み、
本当に包囲されるのではないかと恐れ始めていた。
まして、
自軍最右翼から包囲しようと突出してくる日本の第三軍は
難攻不落だと思い込んでいた旅順を落とした
「悪霊がついている乃木希典」
が指揮している。
そして、全軍に退却を命じた。
が、乃木第三軍に砲弾なく、
日本軍に予備兵力などなく、
日本軍兵士は、
夜も寝ず飯も食べず、攻撃を続けていたのだ。

この三月九日、馬で前線を視察した
第二軍の石光真清中佐の手記を次に紹介しておく(「石光真清の手記」より)。
「傷ついて力尽きた将兵達は
黄塵を浴びて随所に群がり横たわっており、
死屍もまた黄塵に半ば埋もれて識別困難であった。
第一線に近づくに従って、
黄塵に覆われた砂漠のような畑地には、
戦死者や重傷者が遺棄した銃器、弾薬、雑嚢、水筒などが
死屍とともに散乱して、半ば黄塵に埋まっていた。」
その時、石光中佐は、
大山総司令官の副官川上素一大尉に声をかけられる。
彼は、石光が近衛歩兵第二連隊付きの時に
士官候補生として入隊してきて
石光が教育した亡くなった川上操六大将の子息だった。
彼は言った。
「いつも戦線を巡って感じますことは、
このような戦闘は、
命令や督戦では出来ないということです。
命令されなくても、教えられなくても、
兵士の一人一人が、
勝たなければ国が滅びるということをはっきり知っていて、
自分で死地に赴いております。
この勝利は天佑でもなく、
陛下の御稜威でもございません。
兵士一人一人の力によるものであります。
さように考えることは、
教官殿、けしからぬことでしょうか。」

翌三月十日午後五時頃、
第二軍第四師団(大阪)隷下の
大阪歩兵第三十七連隊第二大隊は
奉天城に入城し、日章旗を掲げた。
そして、
大山巌満州軍総司令官は「奉天戦の終結」を宣言した。

日露戦争に観戦武官として参加し、
退役後にエジンバラ大学名誉総長になって
イギリスの教育改革に取り組んだ
イアン・ハミルトン大将は、
日本から学ぶべきものとして兵士の忠誠心をあげ、
「子供達に軍人の理想を教え込まねばならない。
自分たちの先祖の愛国的精神に
尊敬と賞賛の念を深く印象づけるように、
愛情、忠誠心、伝統および教育の
あらゆる感火力を動員し、
次の世代の少年少女たちに働きかけるべきである」
と説いた(平間洋一著「日露戦争が変えた世界史」)。
この教育の結果、
九年後に勃発する第一次世界大戦では、
イギリスのパブリックスクールの生徒達は、
我先に志願して戦場に赴き、
塹壕戦となったソンムの会戦で、
塹壕から飛び出してラグビーボールを蹴って
敵の塹壕に突入し多くの戦死者をだした。

また、
この日露戦争の陸上戦闘において、
敵のロシア軍側から、
一人の民族建国の英雄と、
一人の民族独立の英雄が
生まれていることに注目すべきだ。

その一人は、
旅順に立て籠もっていたロシア軍兵士のなかにいた
ユダヤ人のヨセフ・トランベルドールだ。
彼は、
日本軍の砲弾で片腕を飛ばされており、
明治天皇のお計らいにより義手を戴いて
捕虜として大阪の浜寺ロシア兵捕虜収容所に来た。
そして、一人の日本軍兵士が彼に
「祖国の為に死ぬことほど名誉なことはない」
と言ったことを忘れず、
戦後、ユダヤ人の祖国を作るために戦い始める。
十五年後の一九二〇年、
彼はイスラエル北部のテルハイで、
アラブ人の襲撃を受けて倒れる。
そして、彼に駆け寄った友に
「俺にかまうな、
 祖国の為に死ぬことほど名誉なことはない」
と言い残して亡くなった。
彼は「イスラエル建国の英雄」、
「片腕の英雄」と言われ、
イスラエルで知らない人はいない。

次に、
奉天でロシア軍の騎兵将校として日本軍と戦った
フィンランド人のグスタフ・マンネルハイム将軍は、
日本軍から、
少数でも団結すれば大国に勝てることを学んだ。
そして、ロシアと戦い、
フィンランド独立のために生涯を捧げた。
彼は一九五一年、八三歳で亡くなるが、
二〇〇〇年のフィンランド国内での調査で、
フィンランドで
「最も偉大な人物」
に選ばれている。

以上、
日露戦争のイギリス軍観戦武官イワン・ハミルトン大将が
日本軍兵士の戦い振りを観て、
イギリスの教育改革に取り組んだように、
現在の我々も、少年少女に、
「自分たちの先祖の愛国的精神に
尊敬と賞賛の念を深く印象づけるように」
学校で家庭で子供達にはたらきかけようではないか。
もうすぐ、
「三月十日の陸軍記念日」が来る。
次に来るのは
「五月二十七日の海軍記念日」だ。

西村眞悟FBより


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