「森信三という我が師」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

この度、堺で開かれている
森信三先生ゆかりの読書会の幹事さんから、
森信三先生に関する一文を書けと求められたので、
それに応じたが、
諸兄姉にも
「森信三という我が師」
のことを知っていただきたく、
読書会への一文にかなり加筆して以下の通り御報告する。
もちろん、
巨大な存在を赤子の手で触るが如き報告である。

森信三先生は、
明治二十九年(一八九六年)に愛知県に生まれ
平成四年(一九九二年)に亡くなった。
高等小学校を卒業後、給仕をしながら苦学し、
広島高等師範学校で西晋一郎教授に学び、
京都帝国大学で西田幾多郎教授に学んだ。
西晋一郎教授は、
明治六年(一八七三年)に生まれ昭和十八年(一九四三年)に亡くなった。倫理・哲学の重鎮で國體論を導いた。
西田幾多郎教授は
明治三年(一八七〇年)に生まれ昭和二十年(一九四五年)に亡くなった。同じく倫理・哲学の泰斗であり
当時の人々は
広島の西晋一郎と京都の西田幾多郎を「両西」と呼んだ。
もちろん無学な私は、「両西」の本は読んでいない。
「両西」は、
昭和天皇に対し、
それぞれ次の御進講をした重鎮・泰斗であった。

西田幾多郎の御進講
「歴史はいつも、過去、未来を含んだ
現在の意識をもったものと思います。
それ故に私は、我が国においては、
肇國の精神、神武天皇の建国事業の精神に還ることは、
ただ、古(いにしえ)に還ることだけではなく、
いつも、さらに新たになる時代に踏み出すことと存じます。
復古ということは、いつも維新ということと存じます。」

西晋一郎の御進講(亡くなる年の昭和十八年正月)
論語の顔淵篇「子貢政を問ふ」の講義の中で、
敗戦に直面すれば如何にすべきかを論じて、
やむを得ないときは、まず軍を捨てる。
さらにやむを得ざるときは、経済を捨てる。
しかし、
宇宙の根本である道徳を撤廃することはできない。

また、西晋一郎教授は、弟子達を集めて、
我らは、
日本と天皇を残すために全員死ぬべきであると話した。

森信三先生は、この「両西」に学ばれたのだ。
昭和十八年、西晋一郎博士は亡くなるが、
その時、森信三先生は、
西博士に勧められて赴任した満州建国大学教授として
満州国の首都新京(現長春)にいた。
そして、
西田幾多郎博士は、昭和二十年に亡くなるが、
森先生が満州から帰国できたのは、
翌年の昭和二十一年であった。

森信三先生は、
先生の言葉で「国民教育者の友(指導者)」
として生き抜いた方であった。
京都帝国大学在学中に、
天王寺師範学校(後の大阪学芸大学)の講師として
将来教員になる学生を教えた。
その時の教授録が「修身教授録」として出版された。
私が京都の学生寮に住んでいた時、
寮生の友人として毎日寮に来ていた
宮崎県高鍋町出身の鬼塚禮兆君と知り合った。
その鬼塚君の父上である
鬼塚八郎先生(明治四十二年生)は
戦前朝鮮で教員をされていたが、
我が国の敗戦と共に、何もかも朝鮮に置いたまま、
ただ、森信三先生の
「修身教授録」
だけをリュックにいれて
奥さんとともに高鍋に帰ってこられ開拓に従事されたと聞いた。

私が、森信三先生を知ったのは、
昭和五十一年六月四日。
この前日の夜、私は大阪から夜行で宮崎県高鍋に向かい、
翌朝六月四日、当地の鬼塚君の家に行き、
お父上の鬼塚八郎先生から「往還集」という
森信三先生と門下の長野精一先生が交わされた葉書往復の記録をいただいた。
葉書だから長文は書けない。
従って、却って、
紙面に簡潔にして凝縮した両雄の魂の交差が感じられ、
引き込まれるように「往還集」を読んだ。
その中で、長野精一先生が、
「田中正造の日記を読めば読むほど心をうたれます」
と記したことに対する、
森信三先生からの返信は次の通り、深く魂を打つものだった。

「あなたが田中正造の日記に対して
深奥な感銘をもたれる様になられたということは
私にとっても近来にない深い悦びです。
と申しますのは、
失礼ながら、これまでのあなたの、どちらかと言えば
西欧的な教養主義的教養の可成り厚い層の底が、
ブチ抜けて、
土着の日本人としての「血」に
ブツツヵられた証拠といってよいからです。
これまで私が幾たびも嘆いていた
幸徳秋水のみが絶対視せられて、
民族の一大巨人ともいうべき田中正造が
ほとんど無視されてきた深因は、
私から見れば、
結局わが國の学界およびジャーナリズムで
指導的な役割を演じている人々が、
結局西欧的な教養人であって、
その底に潜んでいる
土着の日本人としての「血」が
自覚的に点火されていないからだと信じるが故です。」

この一文は、森信三先生の
憂国の魂の最も深いところから発せられたものであり、
鋭い直感と深い洞察と教養を感じさせる。
従って、森信三先生がよく使われた
「民族生命の原始無限流動」
という言葉とともに、
以後、今日までの私の人生の場面々々で甦ってきて
私を奮い立たせてくれた。
田中正造は、江戸時代に生まれ育った明治の政治家で、
「余は下野の百姓也」
と自伝の冒頭で名乗った怒濤のような男だった。
そして、晩年、足尾鉱山の鉱毒で肥沃な土地が失われ
谷中村が水没することを明治政府の「亡国」の所業と断じて、
「亡国を知らざればこれ即ち亡国」と叫び、
日比谷で明治天皇に直訴し、
水没する谷中村に住み着いて極貧の生涯を閉じた巨人だ。
森信三先生は、
西洋教養主義的知識人には分からない田中正造を、
初めに「民族の一大巨人」と見抜いた唯一の方で、
それ故、
長野精一先生の葉書に「深い悦び」を感じられたのだ。
そして、
励まされた長野精一先生(明治四十二年生)は、
明治の怒濤のような男だった田中正造と
正反対の、
明治の底知れぬ深淵のような隠者新井奥邃との
魂の交流を描いた
「怒濤と深淵」(副題「田中正造・新井奥邃頌」)、法律文化社
の執筆完成に至った。

私は、この長野精一先生に
森信三先生の出席される読書会に連れて行っていただいて
逢い難くして逢うことを得たり。
森信三先生は、言われた。
人生で逢うべき人には必ず会える。
一瞬遅からず、一瞬早からず,と。

私は、その時、司法試験受験生だった。
そして、何度目かの読書会の後、
森信三先生と二人きりでエレベーターに乗ることになった。
その時、
森信三先生はズバリと前置きなく私に言われた。
「あなたは、司法試験に合格しませんよ」
と。そして、
「あなたは、多角的な関心を持たれている。そのような人は、
重箱の隅をつつくような司法試験には合格せんのです」
と続けられた。
私は、しまったー!と思った。
一瞬に首を斬られ、
斬られた首が、ゴロンと眼の前の床に落ちるのが見えた。
森信三先生は、常に、
抜き身の白刃(はくじん)を持っておられる方だったのだ。

森信三先生が亡くなった翌年、私は衆議院議員になった。
森信三先生の言葉に、
「教育とは流れる水に字を書くような作業だ。
しかも、それを
岩に刻むような真剣さで行わねばならない」とある。
私は、その「教育」を「政治」に言い換えて唱えてきた。

平成九年二月に私が十三歳の横田めぐみさんが
北朝鮮に拉致されたことを明らかにした前年の十二月末、
朝鮮問題専門家の同志荒木和博から
十三歳の少女が
北朝鮮に拉致されているらしいとの報告を受けた。
北朝鮮から韓国への亡命者がその情報をもたらした。
しかし、日本政府は反応していない。
よって、このまま日本が反応しないならば
証拠が消されてしまう(少女が殺される)と荒木と一致した。
私は、
田中正造が
谷中村を救うことが日本を救うことだと断じたように、
横田めぐみを救うことは日本を救うことだと断定して、
年が明けとともに拉致された横田めぐみの存在を明らかにした。
しかしその時、
「でっち上げ」とか「日朝友好に反する」とかの野次を浴びた。

尖閣諸島は我が国固有の領土である。
しかし、
このままでは確実に中共に奪われる。
だから、平成九年五月、
荒海を乗り切ること八時間で魚釣島に上陸した。
そして、魚釣島の浜に座り海を眺めているとき、
この日本の島が日本人が来たので喜んでいるのが分かり
無限の安らぎを感じた。
これ、
原始無限流動の民族生命(日本人の血)がなせる感覚だった。
しかし、東京では、
私を不法侵入者と同じ犯罪者扱いをする
日本政府と党内とマスコミとの闘いが待っていた。

東京品川区東五反田五丁目の正田邸は、
美智子皇后陛下(当時)の御生家だ。
日本建築学会が
「特に重要なもの、あるいは注目すべきもの」
と認定していたチューダー朝風の気品ある和洋折衷住宅だった。

昭和三十四年四月十日午前六時三十分、
美智子様は正田邸玄関でご両親に見送られ
皇太子殿下との御成婚に向かわれた。
両親が娘と別れる哀愁が正田邸に漂った。
同時に、この瞬間が、
二千六百年以上の皇室の歴史の中で、
初めて皇族・貴族ではない庶民から
皇后が誕生する歴史的瞬間だった。
この情景は昭和を生きた日本人の瞼に
懐かしい正田邸の姿と共に残り続けている。
しかし、
この正田邸は平成十三年六月、國に物納され国有財産となる。
すると、翌年末、
財務省が正田邸は無価値なので
解体して敷地を更地にして売却するという方針を決めた。
これ、財務省の役人は悪質な地上げ屋ではないか。
私は東五反田五丁目の人々と共に正田邸解体阻止行動に入った。
解体する重機の前に立ちはだかって解体を阻止した。
日本人解体業者は、
正田邸を見たとき、解体は忍びがたいと感じ、請負を辞退した。
そこで財務省は外国人解体業者を雇って
反対住民の隙に乗じて
一挙に気品ある屋根に大穴をあけて解体した。

田中正造は、谷中村を水没させようとする政府の役人を、
「アイツらは、出世する為には乞食の○○も舐める奴らなるべし」
と日記に書いた。
私は、自分が遭遇した
以上の拉致、尖閣防衛そして正田邸の価値に無関心な
戦後体制のなかの政界、官界、マスコミ界等各界のエリート達は
田中正造が言った
「出世する為には乞食の○○も舐める」奴らだったと思う。
彼らは、皆
「日本国憲法体制の中で出世した者達」だった。
つまり、彼らは森信三先生の言う
「日本人の血にブッツヵっていない者達」
「民族生命の原始無限流動とは無関係な無国籍人」だった。

そこで、諸兄姉に問う。
一体、我が日本の真の「憲法」は何か、と。
それは断じて
外国人のGHQが書いた「日本国憲法」ではない!
先ず、この単純にして明快なことを確認しなければならない。
よって、この「日本国憲法」が
拉致被害者を放置し、尖閣防衛不能、
つまり国民と国家の防衛を阻害し、
国有財産の価値を無視して文化と歴史と伝統を破壊する
元凶である。

その上で私の結論を言う。
これも単純にして明快。
日本の憲法は、
森信三先生の言われる
我が民族生命の原始無限流動を基盤にした
日本人の血に根ざすものである。
よって、日本国の憲法は、
「天照大御神の天壌無窮の神勅」、
「聖徳太子の十七条の憲法」、
「関東御成敗式目」
「五箇条の御誓文」、「国威宣布の宸翰」
「大日本帝国憲法」や「教育勅語」
そして昭和天皇の昭和二十一年一月一日に発せられた
「新日本建設の詔書」・・・等々の
つまり民族生命即ち日本人の血に根ざした規範を法源とする
「不文の憲法」である。
日本は英国と同じ「不文の憲法」の國なのだ。
これが、
私が森信三先生の言葉、
「民族生命の原始無限流動」、「日本人の血にブッツヵる」
から得た救国の結論だ。

私を森信三先生に出会わせてくれた在天の
鬼塚八郎先生と長野精一先生
心から御礼を申し上げ、ご冥福を祈る。

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