不文の憲法こそ我が国の憲法だ。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

まず、私が体験したこと、
次に危機において全国民が目の当たりに見た天皇の御存在、
さらに先帝陛下の御譲位と新帝陛下の践祚から
大嘗祭そして元旦の四方拝までを語る。

その眼目は、
我が国の肇まりから続く尊い国のかたち、
即ち國體を確認し、
この國體と、現在の我が国の政府及び官僚機構の次元が
如何に乖離しているかを具体的に確認するためである。
全く、同じ国の政府とは思えないほど乖離している。
つまり、昭和二十二年五月三日に施行された
「日本国憲法」(以下、憲法と題する文書、と言う)によって動く我が政府及び官僚機構が、
如何に我が國體を無視しているか、
それはあたかも、今も、
かつて我が国を占領統治した外国軍の
忠実な下僕であり続けているが如くである。
 
(正田邸解体)
東京都品川区東五反田五丁目の正田邸は、
上皇后陛下の御生家だった。
それは、昭和初期に建てられた英国チューダー朝風の屋根をもつ和洋折衷住宅で、
日本建築学会が幕末から昭和前期までの建物の全国調査をして編纂した「日本近代建築総攬」(小題「各地に遺る明治大正昭和の建物」)において、
「特に重要なもの、あるいは注目すべきものと考えられる作品」
とされていた。
正田邸は、瓦のひとつひとつが手作りであることが分かる、
まことに清楚な気品のある尊い建物だった。
昭和三十四年四月、
正田美智子様は、この御生家を出られて、玄関の前でご両親にお別れの挨拶をされ、
明仁皇太子殿下との御成婚に向かわれた。
これが、二千年を超える我が国の皇室の歴史のなかで、
始めて皇族や公家以外の一般の民から皇后陛下が誕生する歴史的瞬間だった。
その、生家をあとにしてご両親と別れていく
美しい美智子様の情景は、
背後の正田邸の哀愁をたたえた面影とともに
昭和の御代の全ての日本国民の瞼にのこった。
その後、平成十三年六月、
正田邸は国に物納されて国有財産となった。
しかし、国有財産になってからは、
正田邸はお庭とともに手入れされなかったので、草木が生い茂る状態になった。
これを見て、付近住民は、大切なお家と思っている皇后陛下の御生家が荒廃していくのを憂い、国に正田邸の手入れ等をするように申し入れて、
「五丁目の環境と文化を守る会」を結成した。
平成十四年十月、
財務省の役人三名が、同会の代表者宅を訪れ、メモをとることを禁じた上で、
正田邸があれば土地が高く売れないので、価値のない正田邸を解体して更地にして土地を売却する、解体は直ちに行う旨通告した。
代表者から相談を受けた私は、
正田邸を解体して更地にすれば高く売れるとは何事ぞ、
我が国の財務省は地上げ屋に成り下がったのかと憤り、
直ちに正田邸前に赴くと、既に解体業者が来ており、
付近の住民達が解体を阻止するために正田邸を囲んでいた。
その業者が、解体を強行しようとして動かした重機は、
正田邸の玄関前に立つ私の胴体まで前進したが停まり、睨み合いの末、
運転手が重機から降りて、業者はその日の解体を諦めた。
その後、宮内庁の高官(この者、後に、長官になる)が、
代表者宅に電話してきて、高圧的に
「皇后陛下が解体を望んでおられるのだ。
解体阻止活動を止めろ」
と通告してきた。
私は怒って、内閣に「質問主意書」(平成十四年十二月十三日)を提出した。
「皇后陛下の御生家であり国民の懐かしむ建築学会も価値を認める建物を、
更地にしたら高く売れるから解体するとは、何と卑しい所業なのか。」
しかも
「国有財産を皇后陛下の名を語って解体しようとするなど、
皇后陛下の政治利用ではないか。」と。
しかし、財務大臣も官僚組織も、正田邸の尊い価値を無視して解体を強行した。
業者は、住民が目をそらした隙を衝いて、
重機で正田邸の屋根に一挙に大穴を開けて無残に潰した。
後日、代表者宅で、正田邸を守った住民が集まった時、
最初に解体を請け負い、その後辞退した解体業者も来ていた。
彼は言った。
「解体を請け負い、正田邸を見たとき、
こんな尊い立派な建物を解体できないと思って辞退しました。」と。
財務省は日本人解体業者に辞退されたので、
外国人解体業者に解体させたのだった。
この無念と憤り、今も甦る。

(天変地異の中の天皇)
平成二十三年三月十一日午後二時四十六分十八秒、
宮城県牡鹿半島沖海底を震源地として発災したマグニチュード9の東日本大震災では、
最大遡上高40・1㍍という巨大な津波が東日本沿岸を襲った。
この大災害のなかで、日本と日本人は、
次の、日露戦争における明治天皇の御製の通りであった。

「敷島のやまとこころのをゝしさはことあるときそあらわれにける」

それ故、天皇は、三月十六日に「お言葉」を発せられ、
次のように国民を励まされた。
「何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、
これからの日々を生きようとしている人々の
雄々しさに深く胸を打たれています。」
さらに、陛下は、
自衛隊を筆頭に挙げられて、
「余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深く労いたく思います。」と、言われた。
そして、天皇皇后両陛下は、何度も被災地に赴かれて人々を見舞われ励まされ、
また、皇居のお住まいの暖房を、
被災地と同じように切られて日々を過ごされていたとお聞きしている。

明治天皇も、日露戦争の際、
野戦で兵士が食べる兵隊食を食べられ、冬の暖房を断られた。
侍従がお体が心配だと暖房を勧めると、
天皇は、兵は極寒の満州で闘っておるのだ、とおっしゃった。

天皇が、筆頭に挙げられて感謝された自衛隊は、
地震発生直後に救援行動に突入し、
陸海空自衛隊からなる空前の十万七千人の統合任務部隊を編成して救援活動に没頭して、全生存救出者の七割近くの一万九千二百八十六名を救出する圧倒的な力量を発揮した。
しかも、この自衛隊は、
総理大臣菅直人の命令で出動したのではない。
仮に自衛隊が、総理大臣の出動命令を待っておれば、
平成六年一月十七日の阪神淡路大震災と同じように出動が遅れ、
助けることが出来た多くの人々が救助されずに亡くなったであろう。
この阪神淡路の時の自衛隊の生存救出者は百六十五人で、
これは全生存救出者の三%に過ぎなかった。
昔の人の「馬鹿な大将、敵より恐い」という教訓は、自衛隊幹部の身にしみていたのだ。
よって、自衛隊は、発災と同時に救出活動に入った。
そして、この全生存救出者の七割を救出する圧倒的な働きをした
統合任務部隊の指揮官である君塚栄治陸将、東北方面総監は、
被災地激励の為に自衛隊機で松島基地の滑走路に降り立たれた
天皇陛下に対し、鉄兜に野戦服姿で正対して敬礼した。
即ち、この大災害の時、天皇は我が国の統治者であり、
自衛隊十万七千の統合任務部隊は、
「天皇の部隊、天皇の自衛隊」であった。
総理大臣菅直人は、被災地を見舞うことも出来ず、
官邸と東電本社で喚いていたが、我が国の統治者ではなかった。

全世界は、この大災害における日本人の姿に驚き賛嘆の声を上げた。
イギリスのファイナンシャル・タイムズは
「日本はこの災害に対し、尊敬すべき忍耐力で立ち向かっている」と報じた。
この一千年に一度の未曾有の大災害において、
われわれ日本人が「尊敬すべき忍耐力で立ち向かう」ことが出来たのは、
天皇がおられたからである。
この日本と日本人の姿は、
後に述べる我が国の尊い歴史と伝統のなかにある
「不文の憲法」が生みだしたものだ。
この点に関しては、
平成五年七月十二日の北海道南西沖地震(震度6、烈震)と巨大津波に襲われ、
家々を流され全人口の一割近くの二百三十名が死亡し行方不明になった
奥尻島のことも忘れてはならない。
危機管理専門家の故佐々淳行さんによると、
奥尻島の人々は、当初は気力を失い何日も呆然として座り込んでいた。
しかし、地震から数日が過ぎたとき、
天皇皇后両陛下が島に激励に来られるという知らせが伝わった。
すると人々は立ち上がり、いそいそと瓦礫を片付けはじめ、
島は一挙に復興モードに入っていった。
この目に見えない力、
これが、天皇陛下の御稜威である。
 
(御譲位と践祚)
次に、今も全国民の記憶にある令和の御代となった先帝の御譲位について記す。
先帝は、平成二十八年八月八日、
国民に次の「お言葉」を発せられた。

「既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、
次第に進む身体の衰えを考慮する時、
これまでのように全身全霊をもって象徴としての務めを果たしていくことが、
難しくなるのではないかと、案じています。」

その上で、御自ら御譲位の意思を表明された先帝は、
以後、平成三十一年四月三十日、御自ら皇位を新帝に譲られるまで
「譲位」という言葉を使われた。
この「お言葉」を拝した時、私は、深い感激と共に、
明治天皇が明治の初め、「五箇条の御誓文」と共に国民に発せられた
「国威宣布の宸翰」の冒頭のお言葉を思い起こした。

「朕幼弱を以て猝かに大統を紹き、
爾来何を以て万国に対立し列祖に事え奉らんかと、
朝夕恐懼に堪えざるなり。」

明治天皇は幼年故の不安を、
先帝は老年故の不安を、
共に国民に表白されたのだ。
これほど、率直に赤裸々に国民に不安を訴える元首が、
日本以外の何処の国にあろうか。
「天皇のしらす国」、
即ち、
「天皇と国民が一つの家族の国である日本」
でしか発せられることのないお言葉である。
しかも、この「お言葉」は、
皇后陛下が同年十月二十日の御誕生日に発せられたお言葉で明らかなように、
内閣の関与なく、
先帝の御決断によって発せられたものである。
皇后陛下のお言葉は次の通りだ。

「八月に陛下の御放送があり、
現在のお気持ちのにじむ内容のお話しが伝えられました。
私は以前より、皇室の重大な決断が行われる場合、
これらに関わられるのは皇位の継承に連なる方々であり、
その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので、
皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上で為されたこの度の陛下の御表明も、
謹んでこれを承りました。」

即ち、皇后陛下は、
天皇陛下の「お言葉」に対し、
聖徳太子の十七条憲法の「三に曰く」にある
「承詔必謹」(詔を承けたまわれば必ず謹め)をされたのだ。
しかしながら、安倍内閣は、
終始一貫、「承詔無視」を貫き、
「天皇の御決断による譲位」
ではなく
「内閣の決定による退位」として扱った。
即ち、フランスで革命勢力がフランスのルイ十六世を退位させ、
ボルシェビキがロシアのニコライ二世を退位させたのと同様に、
安倍内閣が天皇を退位させることにしたのだ。
従って、新しい元号である令和は、
新帝の御名御璽のある詔書で発っせられ即刻国民に官報で発表すべきところ、
内閣官房長官が、その皇位継承の前に早々と発表した。
これ、驚くべき不敬、空前の事実の改竄、歴史の改竄である。
幕末にこのようなことをすれば、
志士は首謀者の首を取って「奸賊」と大書して天下に晒すあろう。
それ故、皇后陛下は、
前記のお言葉に続けて、次のように言われた。

「ただ新聞の一面に
『生前退位』という大きな活字を見たときの衝撃は大きなものでした。
それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、
一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。
私の感じすぎであったかもしれません。」

では何故、安倍内閣は、このような歴史の改竄を行ったのか。
その理由は、憲法と題する文書には、
天皇の御意思による譲位は、想定されていないからだ。
そこに想定されていない事実は、
目を閉じれば世界が無くなるように、「無いこと」にしたのだ。
これが「戦後体制」だ。
まさに「戦後体制からの脱却」、を掲げて政権に復帰した安倍内閣は、
天皇という我が国の最も尊い領域において、
戦後体制に閉じ籠もり、歴史の改竄をやった。
憲法と題する文書においても、
天皇は、国と国民統合の象徴で(第一条)、
此の憲法の定める国事に関する行為のみを行い、
国政に関する権能を有しない(第四条)。
その上で、
天皇は、内閣総理大臣と最高裁判所の長官を任命し(第六条)、
第七条に定める衆議院の解散等の国事に関する行為を行う。
この国政上最も重大な地位である皇位を、
自らの御意思で皇太子に譲ると、
先帝は国民に言われたのだ。
これ、憲法と題する文書は想定していない。
よって、戦後体制に閉じ籠もる安倍内閣は、腰を抜かしたことだろう。
そして、法匪の如く、
天皇の御意思である譲位を、内閣が決めた退位に改竄して乗り切った。
また、いつも小さなことで騒ぐ野党(国会)とうるさいマスコミも、
総てこの改竄を見るまいと目を閉ざした。
これを、挙国一致と言いたいが挙国賊一致と言う。
しかし、内閣による姑息な事実の改竄はここまでだ。
この度の、皇位継承に顕れたその本質を、
神秘の中で明らかにしている宮中祭祀は、古式通り行われた。
まず、三種の神器である「剣璽渡御の儀」が行われた。
しかし、官僚組織は、「剣璽等」として神器ではない「物」を付け加えて、
神事では無く「事務引き継ぎ」の如く装っていた。
また、新帝の、宮中三殿の
賢所における天照大御神と、
皇霊殿における歴代総ての天皇の霊と、
神殿における日本の総ての神々に対する皇位継承の御報告が、
神事として行われた。
さらに、
天皇のもとに天照大御神が降りてこられ、
深夜、天照大御神と天皇が神人一体となり、
天皇が「現人神」になる神事が大嘗祭であり、
正月元旦未明、
天皇が、我が国と全国民の為に、
総ての災厄などの悪いものは、皆ことごとく我が身を通れ(過度我身)、
私がそれを浄化するという決意を込めた呪文を一心に念じられるのが四方拝だ。
この宮中祭祀のなかで最も重要な祭祀は、
総て太古からの古式通り行われた。
それにしても、
四方拝は凄いではないか。
母親は、わが子に起こる災厄を自分が引き受けたいと祈ることは出来るだろう。
しかし、我々は、
国家と全国民に起こる災厄は、総て我が身を通れ(過度我身)、
と祈ることが出来るだろうか。
しかし、
第百二十六代の天皇は、
大嘗祭で天照大御神と一体の現人神となられ、
正月元旦未明、まさにその祈りをなされた。
この祈る天皇を戴く国が日本なのだ。

以上の通り、
正田邸の価値を否定して夜盗のように解体を強行した政府と官僚機構のこと、
そして、天変地異のなかの天皇と国民の姿、
さらに、皇位の継承に顕れた天皇の本質と宮中祭祀を述べてきた。
その目的は、我らが見た事態のなかに、
我が国の歴史と伝統に基づく価値と規範が
「不文の憲法」として存在し機能していることを示さんが為であり、
同時に、マッカーサーの書いた「憲法と題する文書」に従う我が国の内閣と官僚組織は、
この「不文の憲法」を無視して、
未だマッカーサー率いる占領軍の下僕の如くであることを明らかにする為だ。
安倍内閣が、ずる賢く憲法と題する文書に従いながら、
「日本を取り戻す」というスローガンを掲げるとは、笑止であった。
とはいえ、以上の事態を、全体として眺めれば、
憲法と題する文書が存在し、内閣と官僚組織がこの文書に基づいて
如何に隠蔽しようとしても、
我が民族生命の原始無限流動の源である國體は厳然と存在し機能していた。
これこそ、現在に顕れ機能している、
まさに我が国の「不文の憲法」である。
我々は、これを我が国の憲法と自覚しなければならない。

では、我が国の「不文の憲法」を自覚する意義は何か。
それは、日本のみならず、これからの人類の幸せの為だ。
何故なら、
西洋を中心とするキリスト教圏の諸民族が、
キリスト教によって、
太古の神話から切断されて豊かな民族の記憶を喪失したのに対し、
我が日本は、
キリスト教に征服されなかった唯一の文明国であり、
太古からの民族の記憶(神話)を維持しているからだ。
さらに、この我が国の民族の記憶の中に、
二十一世紀の西洋文明の落日の後に生きる人類の、
普遍的で基本的で根源的な指針があるからだ。
フランスの社会人類学者クロード・レブィ=ストロースは言った。
「日本的特殊性なるものが、根源からあり、
それが外部からの諸要素を精錬して、
つねに独創的な何物かを創りあげてきたのだ。
われわれ西洋人にとっては、
神話と歴史の間に、ポッカリと深淵が開いている。
日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、
そこでは誰もが歴史とも神話とも密接な絆を
むすんでいられるという点にあるのだ。」(「日本論、月の裏側」)。
よって、以下、我が国の歴史と伝統から産み出された
現に生きている「不文の憲法」について記したい。

(憲法の存在の仕方)
およそ、国家が存立している以上、
国家の存立の基盤と、その基盤の上に立てられた基本的統治組織と、
その活動の基本原則及び国民の権利と義務を定めた法が存在する。
この法が、国家の根本規範である。
そして、この根本規範を一定の手続きで紙に文字で書いたものを
形式的意味の憲法つまり「成文憲法」と言い、
紙に書かれていない根本規範を
実質的意味の憲法あるいは「不文の憲法」と呼ぶ。
現在、イギリスやイスラエルやニュージーランドは「不文の憲法」の国である。
では、我が国は、「不文憲法」の国なのか「成文憲法」の国なのか。
明治二十二年二月十一日に公布され同二十三年十一月二十九日に施行された
「大日本帝国憲法」が存在するから、
我が国は「成文憲法」の国であるといえるかも知れない。
しかし、我が国は、大東亜戦争の敗戦によって
昭和二十年九月二日から同二十七年四月二十七日迄、
連合国(最高司令官ダグラス・マッカーサー)の軍事占領下におかれ、
その間、
「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は
連合国最高司令官の制限の下に置かれる」(降伏文書)。
そのなかで、同二十一年十一月三日、憲法と題する文書が、
大日本帝国憲法七十三条の改正手続きにより公布され、同二十二年五月三日に施行された。よって、大日本帝国憲法は同二十二年五月二日を以て機能を停止した。
しかしながら、私は、
大日本帝国憲法の改正をしていない部分、
即ち、国家緊急事態対処規範である「緊急勅令」と「戒厳令」の領域に関しては、
大日本帝国憲法を、今も緊急時に機能させてしかるべきと考えている。
では、憲法と題する文書が、機能していることは事実であるが、
それは果たして我が国の「憲法」なのか。
私の結論は、普遍的な学問の原則に従い、明確である。
即ち、「憲法」ではない。これが、答えだ。
かつて、韓国が、
朝から晩まで「日韓併合条約は、無効である」と言い続けていたことがあった。
そこで、アメリカのハーバード大学で各国の国際法学者が、審査して、
「有効」という結論を出した。
「日本国憲法」は有効か無効か。
同じようにすれば「無効」という結論がでる。
これが、学問だ。
しかしながら、我が国の憲法学者だけが、この「学問」をしない。
学生時代に同期の学者(大学教授)に質したら、
答えは、メシのタネをなくすようなことはしない、だった。
日本国憲法は、日本の憲法ではなく、占領軍が書いた憲法と題する文書であり、
占領軍の「日本占領統治基本法」として機能しているに過ぎない。
だから、先に憲法と題する文書を、
我が国の歴史と伝統(不文の憲法)よりも墨守する我が国政府を、
未だ連合軍の忠良な下僕と言ったのだ。
つまり、我が国を占領統治したアメリカは、
占領状態が終了しても、
我が国を被占領状態に固定するために
日本占領統治基本法に「日本国憲法」という「題」をつけて残していったのだ。
従って、天皇の権威と軍隊は、未だ剥奪されたままだ。
その理由は、被占領国に軍隊は不用だと占領国が判断したからだ。
それを、被占領国民は、「平和のため」と思い込まされたが、
とんでもない。却って平和は維持できない。
古代ローマ以来、
世界は「平和を望むならば、闘いに備えよ」が鉄則である。
しかも、時、既に二十世紀に形成された世界秩序は、地殻変動を起こしており、
中国共産党独裁国家は崩壊に向かい東アジアに動乱が迫っている。
もはや、占領統治基本法では、我が国の安泰を期しえない。

(我が国は現在も不文の憲法の国)
「日本国憲法」は憲法ではなく「大日本帝国憲法」は機能停止という事実と、
冒頭に回顧した天変地異の中の我が国の姿と
皇位継承に顕れた尊い宮中祭祀を総合すれば、
現在の我が国は、
イギリスと同じ「不文の憲法」の国と言える。
よって、次に、
小森義峯氏の「日英両国における不文憲法の重要性」という論文(憲法論叢第10号)から多くの教えと示唆を受けたうえで、
「不文の憲法」の意義と法源を簡潔に記す。
 
イギリスは、既に十八世紀中葉に世界唯一の「立憲国家」であったが、
今に至るも「不文の憲法」の国で革命はなく古きよき伝統と文化を保持している。
これに対して十八世紀の末に絶対王制を革命で倒したフランスは、
成文憲法を制定するが、以来、現行の第五共和制憲法(ド・ゴール憲法)に至る迄、
十五の成文憲法を作り続け、その度に、古きよき伝統と文化が損なわれた。
ドイツも、十九世紀半ばに成文憲法を制定するが、以後、成文の改廃を繰り返し、
古きよき伝統と文化が損なわれてきた。
このイギリスとフランスとドイツの違いは、
「不文の憲法」が、
社会情勢や政治情勢の変化に柔軟に対応できるのに対し、
紙に書かれて固定した「成文憲法」ではそれができなかったからだ。
つまり、変転する現実と
紙に書かれてはいるが「死んだ法」との隔たりが大きくなる。
従って、「不文の憲法」では、「憲法違反」の問題が生じる余地がない。
即ち、「憲法違反」を武器にした政治闘争と政治的混乱は起こらない。
アメリカ流の違憲審査制度を導入している我が国の、
憲法九条を巡る砂川訴訟や長沼ナイキ基地訴訟、
政教分離を巡る津地鎮祭訴訟や愛媛県玉串訴訟などは、
日本を、ソ連や中共の圏内に入れようとする明確な政治闘争であり、
その闘争の有力な手段として「憲法条文」を利用したものだ。
従って、地裁、高裁、最高裁の各級裁判所の司法判断が
「違憲」と「合憲」の目まぐるしく転変した。
これは、政治的にも社会的にも好ましいものではない。
しかし、日本共産化を目指す闘争からみれば有効であった。

そこで、以上の「不文の憲法」の利点を観たうえで、
現在のイギリスの世襲によってエリザベス二世に至る
ウィリアム一世によるノルマン王朝創設(一〇六六年)よりも、
一千六百年古い神武天皇と国の誕生から
現在の百二十六代に及ぶ天皇を戴く我が国の
歴史と伝統の底に存在する根本規範即ち國體法こそ、
我が国の「不文の憲法」であると記したい。
その我が国の「不文の憲法」の法源は、
① 記紀に記された神勅と詔書、
② 聖徳太子の十七条憲法、
③ 昭和天皇に至る歴代天皇の重要な詔勅、
④ 大日本帝国憲法と旧皇室典範とその下の諸法令、
⑤ 現行の国会法、内閣法、裁判所法その他実質憲法的重要性を有する諸法律、である。
とりわけ、
天照大御神の天壌無窮の神勅と
神武天皇の橿原建都の令・八紘一宇の詔と
聖徳太子の十七条憲法(六〇四年)は
我が国の「不文の憲法」の中枢である。
これに対し、
イギリスの「不文の憲法」の中核は、マグナ・カルタ(一二一五年)である。
マグナ・カルタは、封建貴族が専制君主であるジョン王に迫り、
王権の行使に制限を加え、貴族の諸権利を再確認させた六十三箇条の特許状だ。
つまり、
我が国の「不文の憲法」は
神話から連続する「天皇のしらす国」の規範であり
天皇と国民が一つの家族のようになることを統治の目的とする。
統治の形態を「王道」と「覇道」に分類すれば、
我が国は、
天皇が権力ではなく
権威と精神的感化力によって統治する典型的な「王道」の憲法である。
これに対して、イギリスの「不文の憲法」は、
その始まりが、
王の専制を許さないために貴族の権利を確認する特許状であり
権力による強制を統治の原則とする典型的な「覇道」の憲法である。
この統治の原理においては、
「不文の憲法」の国イギリスも、
「成文憲法」の国であるフランス、ドイツ、イタリア、アメリカ等々も同じだ。

ここで、想起するのが、
本年(令和二年)の三月十三日の
我が国政府のシナウイルスに関する緊急事態宣言である。
我が国の発した宣言には、「要請」だけで
「罰則」などの強制手段はなかった。
これに対して、
強制手段のない緊急事態宣言などあり得ない、
というのが欧米諸国からの評価であった。
フランスなどは真っ先に日本を非難した。
しかし、結果は、
強制手段のある欧米諸国のシナウイルス感染者の減少幅はまことに小さく、
強制手段のない我が国のウイルス感染者は急速に減少した。
現在においても、
欧米諸国の一日感染者数は万単位だが、我が国では数百人単位だ。
ここにも、
九年前の東日本大震災の被災地と同様に、
我が国の「不文の憲法」が生きて機能しているのを感じる。
即ち、
権力的強制を統治の原則とする欧米の伝統(不文の憲法)と
精神的感化を統治の原則とする
我が天皇のしらす国の伝統(不文の憲法)の違いだ。

最後に、
アメリカ製「日本統治基本法」である
「憲法と題する文書」(日本国憲法)の処理(廃棄)を如何にするか。
この課題に関しては、
昭和二十三年六月十九日に、衆参各議院で行われた
「教育勅語の無効決議」
の先例に倣い、
同文書五十六条の
「各議院の総議員の三部の一以上の出席と出席議員の過半数による賛成」
による
「日本国憲法無効廃棄決議」
により除去し、
我が国は「日本統治基本法」の頸城から脱却し、
本来の「不文の憲法」に回帰する。
これが、即ち、
日本を取り戻すことだ。
そして、
この「不文の憲法」に掲げられた
我が国の神武天皇の創業以来の理想
「八紘一宇」!
即ち、
「地球は一つの家で、人類は一つの家族」!
これこそ、
二十一世紀の人類の未来を明るくする理念ではないか!



西村眞悟FBより