「三月十日」と「三月十一日」について。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

 

明治三十八年(一九〇五年)三月十日は、
日露戦争に於ける日露最後の陸上決戦となった
奉天大会戦の勝利が決定した日であり、
後に「陸軍記念日」とされた日だ。

昭和二十年(一九四五年)三月十日は、
大東亜戦争において、アメリカ軍が未明に東京の下町に対して
325機のB29戦略爆撃機で空襲を行い
焼夷弾を中心とする2119トンの爆弾を投下して
10万人以上の死者行方不明者を出した日だ。

以下、この二つの三月十日について記しておきたい。

 

<奉天大会戦>
我が国の興廃を決した日露最後の陸上決戦。
参加兵力は、
日本軍24万9800名
ロシア軍30万9600名
で世界陸戦史上空前の大兵力であった。
砲数は、
日本軍990門
ロシア軍1200門

この会戦の特色は、
ロシア軍よりも人数も砲数も少ない日本軍が、
ロシア軍を両翼から包囲殲滅しようとしたことである。
会戦は
二月二十五日の日本軍による奉天南東の清河城攻略から始まり
三月一日から日本軍の総攻撃が開始され、
三月十日午後五時頃、奥第二軍の第四師団(大阪)隷下の
大阪歩兵第三十七連隊(現 陸上自衛隊第三十七普通科連隊)第2大隊が、
奉天城に入城して日章旗を掲げ、
大山巌満州軍総司令官が会戦の終結を宣言して終わった。

特に旅順を陥落させてから
休むことなく奉天に向けて北上してきた
乃木希典軍司令官率いる第三軍は、
日本軍最左翼から奉天のロシア軍を包囲するために突出して
迂回攻撃を仕掛け、
甚大な損害を被りながら、
ロシア軍司令官クロパトキンの神経を痛撃して
ロシア軍を奉天からの退却に追い込んだ。
ロシア兵達は、
陥落するはずがないと確信していた旅順を陥落させた
「ノギ」には
悪霊がついていると恐れており、
第三軍の日本軍将兵は、
ロシア語で「我こそは、ノギ第三軍の将兵なり!」
と叫んでロシア兵に向かって突撃を繰り返した。
さらに、三月一日以来、
連日連夜、休むことなく続く日本軍の攻撃に直面して、
ロシア軍の司令官達は、
日本軍は有力な予備兵力を持っていると思い始めた。
これも、このままでは日本軍に包囲されると
クロパトキンが恐れ始めた要因である。
しかし、
日本軍に予備兵力は無く、
兵士一人々々が、眠らず食らわず,
ロシア軍に向かって攻撃を続けていたのだ。
三月七日、
ロシア軍は、乃木第三軍の進出を許し、遂に退却を始めた。
日本軍は追撃に移ったが、
兵の消耗が激しく、火砲・弾薬が欠乏し、
包囲網を完成できなかった。
乃木第三軍からは、
奉天からロシア兵を満載した列車が三十分おきに北上していくのが見えた。
奉天会戦の
ロシア軍戦死者8705名、
戦傷5万1388名、捕虜・失踪2万9330名
日本軍戦死者1万6553名、
戦傷5万3475名、捕虜404名
日露両軍併せて二万五千余の将兵が、
広大な黄塵舞う満州の荒野に横たわった。
この奉天の新戦場の情景を
奥第二軍の石光真清少佐が書いているので(石光真清の手記)、次に記す。
お読み頂きたい。
そして、今の季節に、
日本の空にも時々舞う大陸からの黄砂を見て、
満州の昼間でも薄暗くなるほど舞う黄塵万丈の奉天の戦場を思って頂きたい。

・・・       ・・・       ・・・
黄塵に覆われた砂漠のような畑地には、
戦死者や重傷者が遺棄した銃器、弾薬、雑嚢、水筒などが
死屍とともに散乱して、半ば黄塵に埋まっていた。
兵士の一人一人が、
機関銃の猛射を避けるために円匙で自分の頭を入れる穴を掘った跡が、
黄塵に埋もれながら点々と残っていた。
この日露大会戦の最後の戦場に、
若い命を散らした兵士達の哀れな営みが、馬上の私の胸を締めつけた。
「教官殿では在りませんか。川上素一であります」
声をかけられて振り向くと、傍らに馬を近づけてきた若い将校があった。
「大山総司令官の副官川上大尉であります。
元帥閣下から命を受けて戦線を視察いたしております」
こう言われて思い当たった。川上操六大将の子息で、
私が近衛歩兵第2連隊付の時に、士官候補生として入隊し、
私が教育したのであった。
吹きすさぶ黄塵の中で懐かしい面影を見ようと顔を近づけて握手した。
「いつも戦場を巡って感じますことは、
このような戦闘は、命令や督戦では出来ないということです。
命令されなくても、教えられなくても、
兵士の一人一人が、勝たなければ国が滅びるということを、
はっきり知って、自分で死地に赴いております。
この勝利は天佑でもなく、
陛下の御稜威でもございません。
兵士一人一人の力によるものであります・・・
さよう考えることは、教官殿、けしからぬことでしょうか」
・・・       ・・・       ・・・

 

<東京大空襲、昭和20年3月10日>
アメリカ軍は、
B29戦略爆撃機による爆撃技術に長けたカーチス・ルメイ少将を新たに爆撃集団の司令官にして、
彼の立案した夜間に低高度で東京都上空に侵入して
下町の民家を焼き尽くすという爆撃を昭和20年3月10日に実践した。
同日、未明、B29戦略爆撃機325機は、
高度1500~3000㍍から
東京の浅草、本所、神田、下谷、日本橋、深川の下町地域に
焼夷弾を中心とした2119トンの爆弾を投下し、
下町一帯を火の海にして、
死者・行方不明者10万名以上、
負傷者4万1000名
被災者100万8000名
被災家屋26万8358件

の戦禍をもたらした。
この単独の空襲による犠牲者数は、
世界史上最大である。

「昭和天皇実録」
昭和20年3月10日と18日の記述は次の通り。

 

「十日、土曜日、昨日午後十時二十分より、
警戒警報発令中のところ、
この日午前零時十五分、空襲警報発令につき、
直ちに皇后とともに御文庫地下室に御動座になり、
三時十五分まで過ごされる。
御動座の間、侍従武官より
我が軍の仏印に対する武力発動につき上聞を受けられる。
この日、米軍B29戦略爆撃機の攻撃により、
下谷区、浅草区、本所区、城東区を始めとして
帝都各地に甚大な被害が発生する。」

 

以後、「昭和天皇実録」の記述は、
天皇には寐ておられる時間は無いのかと思うほどの多忙を極め、
次の、3月18日に至る。

 

「十八日、日曜日、
去る十日の東京都内における空襲罹災地のうち、
深川、本所、浅草、下谷、本郷、神田の各区を
自動車にて御巡視になる。
午前九時に御出門・・・
富岡八幡宮前において下車される。
それより御徒歩にて参道を進まれ・・・十時、還幸される。
途中、車中において、侍従長藤田尚徳に対し、
焦土と化した東京を嘆かれ、
関東大震災の巡視の際よりも今回の方が遙かに無残であり、
一段と胸が痛む旨の御感想を述べられる。
左の御製あり。
戦のわざはひうけし国民をおもふこころにいでたちてきぬ   」

 

この被害状況の御巡視の際、
天皇陛下は、
路傍に呆然として座っている若い女の人に声をかけられた、
と随行の人が書かれたのを読んだ記憶がある。
声をかけられたその女の人は、
歩み去られる陛下を見つめ、
随行の人に
「あのお方はどなたですか?」と尋ねた。
随行者は、「御上です」と答えたという。

この東京大空襲は、
民間人の殺戮を主目的にして
十万人以上の東京都の非戦闘員住民を殺戮して
その目的を遂げたものであり、
ハーグ陸戦法規違反の大量虐殺である。
しかし、我が政府は、
昭和27年のサンフランシスコ平和条約締結時に、
賠償請求権を放棄している。
さらに、我が国政府は、
昭和39年12月、
この東京大空襲を実施したカーチス・ルメイ大将に、
勲一等旭日大綬章を授与する決定をした。
この勲章は天皇から親授されるものであるが、
昭和天皇は親授されず
カーチス・ルメイは、
自衛隊の基地内で自衛官からこの勲章を授与された。

以上、3月10日に思うことを記した。
これらは、
我が国の中学校の歴史の時間に教えられるべき
民族の記憶だと思う。

 

さて、
明日は、3月11日だ。
9年前の3月11日、午後2時46分18秒、
宮城県牡鹿半島東南東沖130㎞の海底で
マグニチュード9の大地震が発生した。
そして、巨大津波が東日本を襲った。
この一千年に一度の未曾有の大災害で明らかになったものは、
「天皇のしらす国」
という我が国の本質である。
「しらす」とは、
自他の区別無く一体となる、
つまり、家族となる、ことだ。
従って、この時、我が国を統治されていたのは、
国民と家族のように一体になった
天皇陛下である。
自衛隊は、国民の救助救援を目的とした
陸海空自衛官からなる
空前の10万7000人の統合任務部隊を結成した。
その隊長である君塚栄治東北方面総監陸将は、
被災地激励の為に自衛隊機で松島基地に降り立たれた
天皇陛下に対し、
鉄兜に野戦服の姿で正対し、敬礼した。
この時、
10万7000の自衛隊統合任務部隊は、
「天皇の部隊」、
「天皇の自衛隊」
となり、
彼等は、
寝食を忘れて被災地住民の救助救援活動に突入していった。
そして、全生存者救出数のうち、
七割を救出するという圧倒的な力量を示し、任務を全うした。
明治天皇の
次の御製が思い浮かぶではないか。

 

敷島の大和心のををしさはことあるときそあらわれにける

 

東日本大震災の被災地に顕れた我が国の國體
この時、自衛隊は、「天皇の自衛隊」となって被災者救出に寝食を忘れ没頭していった。

 

東日本大震災に顕れた我が国の國體、次に、風評被害に惑わされるなということ。

 

本日、令和二年三月十一日は、東日本大震災と巨大津波から九年を閲する。
それ故、数日前から、
マスコミでは東日本大震災の被災地の復興状況とそこに住む人々の様子を伝えている。
また、津波による東京電力福島第一原発の浸水と
原子炉建屋の爆発という異常事態に遭遇して
その冷却に命をかけた所長の吉田昌郎と現場の人々の苦闘を描くドキュメンタリー、
門脇隆将著「死の淵を見た男」の映画化「Fukushima50」が上映されている。
感動的な映画である。
とはいえ、
福島第一原発所長の吉田昌郎は大阪人で、
大阪教育大附属高校15期の六年後輩。
一刻を争い命をかけて原子炉冷却に総力を挙げている緊急時に
ずかずかと福島第一原発に押しかけた総理大臣菅直人を、
「あのオッサン」、と呼んだ男だ。
必ず、「あのアホ」、とも呼んでいたと思う。
映画で吉田を演じた渡辺謙に、吉田の大阪弁と大阪の土着臭が薄かったのが残念だ。


そこで、マスコミの報道をすべて観るわけではないが、
本稿では、
多分、マスコミでは欠落すると思われる二点について、改めて記しておきたい。

 

その第一点は、
自衛隊が如何に動いたか。
戦後、思い込んでいる「シビリアンコントロール」は大きな間違いだ。
そして、
あの時、自衛隊は「天皇の自衛隊」であった。
ということ。
その第二点は、
ええ加減に、「風評被害という思考停止」を克服せよ。
ということである。

まず(第一点)
自衛隊は、平成7年(1995年)1月17日の阪神淡路大震災の時も
平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災の時も
出動して、まず人命救助に没頭し、次に救援活動に邁進した。
次は、
阪神淡路と東日本の両大震災に於ける
発災から七十二時間以内といわれる人命救助活動において、
警察、消防、自衛隊が、それぞれ何人を救出していたかの一覧である。

<阪神・淡路大震災>        <東日本大震災>
全生存救出数・・・5047人   ・・・2万7649人
(内訳)

    警察・・・3495人 ・・・ 3749人
    消防・・・1387人 ・・・ 4614人

自衛隊・・・ 165人    ・・・1万9286人

この二つの大災害に於ける顕著な相違点は、
阪神淡路における自衛隊の救出者数が、全生存救出者数の3%であるに対し、
東日本では、全生存者救出数の70%に達していることだ。
この相違は、
前者に於いては、自衛隊の初動が遅れたのに対し、      
後者では、自衛隊が直ちに出動して救出活動を開始し、
速やかに全国の陸海空自衛隊部隊からなる空前の10万7000人の
統合任務部隊を編成して救助に没頭したことに由来する。
特に、
被災地のまっただ中にある多賀城の陸上自衛隊第22連隊の隊員900名は、
直ちに救出活動に突入し、
4775人を救出した。
10万7000の自衛隊部隊が救出した総数1万9286人の
実に4分の1の4775人を、
家族が行方不明になっている22連隊の隊員900名が救出したのだ。
第22連隊の國友 昭連隊長は、
射撃訓練場から帰隊する途中で地震に遭遇し、
直ちに上部司令部である第6師団師団長に携帯電話で連絡を入れ、
「出します」と告げると、
久納雄二師団長も直ちに「よし、出せ」と応答した。
この決定が4775人の命を救ったのだ。
阪神淡路では自衛隊に初動の遅れがあり、東日本では遅れはなかった、
この一点において、
国民の命に関わる決定的な相違が生まれた。
では、
自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣に、
この決定的な相違をもたらす差違があったのであろうか。
それが無かったのだ。
二人とも絵に描いたような左翼の憲法9条を信奉する馬鹿で、
福島第一原発所長の吉田が言う、「あのオッサン」、「あのアホ」だった。
相違は、
阪神淡路が、自衛隊の出動をあの村山富市の指示に委ねたのに対し、
東日本は、あの菅直人の指示を待つことなく、
地震の揺れの中で、
被災地の現場では、
多賀城の22連隊連隊長と第6師団師団長が直ちに「出る」と決断し、
東京では、
陸上幕僚長と統合幕僚長が、
直ちに「出す」と決断して昔の言葉で言う「戦闘序列」を決定し、
大部隊を編成し出動させたからだ。

ここで、我々は、昔の人が言った
「アホな大将、敵より怖い」
という言葉の適切さに思いを致すべきである。
民主主義は良いことだというが、選挙でアホを選んだことがあり、
その為に、多くの国民が救助されずに葬られたことを覚えておかねばならない。

自衛隊には、
阪神淡路のこの痛恨の思いが遺伝子として伝わっていた。
従って、平成23年3月11日午後2時46分、東京市ヶ谷の自衛隊庁舎高層階で
強い地震の揺れを感じた陸自トップの火箱芳文陸幕長は、
直ちに出動の措置をとった。

以上の、阪神淡路と東日本両巨大地震に於ける自衛隊の活動を振り返った上で、
憲法9条のもとで、平和主義者気取りで、
軍隊(自衛隊)を雁字搦めにして、その行動を監視抑制することが
「シビリアン・コントロール」だと曲解する
大きな過ち、いや、大きな犯罪を指摘する。
何故、大きな犯罪か。
このシビリアン・コントロールの曲解によって、
阪神淡路大震災で「アホな大将」は、
助かるべき多くの人々を見殺しにしてしまったからだ。
この見殺しにした張本人らが、
平和主義を気取り、憲法9条を信奉している。
この偽善、この恥知らず、腹に据えかねるではないか。
結論。
シビリアン・コントロールとは
「他国と戦争をするか、しないかは、
国民に対して最高の政治的責任を負う
内閣総理大臣か大統領が決定する」

という原則であり、
これ以上でもこれ以下でもない。
従って、
多賀城で眼の前に巨大津波が押し寄せるのを現認した
第22連隊の國友連隊長や、
東京で東日本のマグニチュード9の地震に揺すられた
火箱陸幕長が、
直ちに被災民救助のために自衛隊を出動させたことは
当たり前で、シビリアン・コントロールの次元ではない

 

このように、
他国との開戦の決定以外に、
つまり、シビリアン・コントロール発動以外の領域に於いて、
自衛隊が行動を起こさねばならない領域は、
地震、津波、台風以外にも実に多い。
例えば、我が国の領空付近に於けるスクランブル発進時、海上の海賊対処、
さらに、東シナ海の尖閣や西太平洋の小笠原海域や日本海の大和堆に於ける
島嶼への侵攻事案や海底の宝石珊瑚強奪や密漁などだ。
これ等の事案を現認した自衛隊の機長(パイロット)や艦長や連隊長が、
直ちに如何に対処するかのルールである「ROE」
即ち「ルール オブ エンゲージメント、交戦規定」
を自衛隊はあらかじめ決定して、
各部隊は、それに基づく訓練を積んでおくべきである。
この「ROE」の決定と訓練が、
近い将来、明日かも知れず、明後日かも知れず、
必ずお国の為に役立つときが来る。

最後に、
東日本大震災における被災地の国民と自衛隊の救助救援活動に於いて、
「日本国憲法」という戦後の分厚い遮蔽膜を抜けて、
日本という国家共同体の太古からの「眞の姿」
即ち「國體」が、
我々の眼前に現れ出たことを指摘しておく。
既に明らかなように、
その時の総理大臣の菅直人は、
官邸や東電本社で喚いていただけで、我が国の統治者ではなかった。
その時、我が国を統治していたのは、
権力者としてではなく古来からの権威に基づいて
平服で被災地を廻り、被災した多くの国民を励まされていた
天皇であられた。
その時の、天皇と被災地の国民の姿は、
我が国が「天皇のしらす国」であることを物語っていた。
「しらす」とは、古代大和言葉で、
自他の区別なく一つになること、
即ち、一つの家族になることである。

その天皇陛下が、
自衛隊機で松島基地に被災者激励の為に降り立たれた際、
自衛隊の10万7000人の特別任務部隊長である君塚栄治東北方面総監陸将は、
鉄兜に野戦服姿で、天皇陛下に正対して敬礼した。
その時、10万7000の特別任務部隊は、
「天皇の自衛隊」
になった。
この松島基地で、
「天皇陛下に敬礼する君塚栄治陸将」の写真を、
マスコミは遂に報道しなかった
しかし、言っておく、
この写真こそ、
危機に於いて顕れた歴史と伝統に基づく「日本本来の姿」を写したものだ。

次に(第二点)
「風評被害」という言葉を使う思考停止について記しておく。

我が家の近くの仁徳天皇御陵の西の空き地は、
戦前からあった府立農学校の跡地である。
その空き地の桜の木の付近に、
4㍍ほどの囲いが造られ、人が入れないようにされている。
その囲いに理由を説明する紙が貼られている。
それによると、この囲いの下の土壌には、
有毒な鉛やヒ素が含まれているので人が入れないようにしたという。
そうかと思って次を読むと、
但し、と書いて、
「同じ濃度の鉛やヒ素を溶かした水を、
毎日、2リットルづつ70年間飲み続けても
人体には何の害もありません」

とある。
何じゃこら
毎日、2リットル70年間飲み続けても人体に害がなかったら、
安全で、囲いをして立ち入り禁止にすることはないじゃないか。

そうならば、毎日、2リットル70年間飲み続けようと思って飲み出したら、
70年経つ前に確実に死ぬウヰスキーや焼酎やブランデーを
販売禁止にせないかんやないか。

しかし、日本国中、
この貼り紙の理屈で動いているらしい。
福島県の飯舘村や第一原発周辺の双葉町や浪江町や富岡町も
菅直人内閣は、この理屈で居住禁止にしたと私は見ている。
飯舘村には何度も行って、
村長に、安全だ、立ち退くことはないと進言したが、
菅直人内閣は、強権的に全村民の立ち退きを迫ったのだ。

村民が立ち退いて無人になった村には、
丸々と肥えた健康な猿や猪や鹿が我が物顔に動き回っていて
我々の主張の正しさ、菅内閣の誤りを証明してくれている。
地震直後、札幌医科大学の高田純教授は、
被災地を南北に縦断して放射線量を調査し、
福島第一原発の門の付近の放射線量も安全という判断を下した

同時期頃、私は、
福島第一原発の正門近くでバーベキューパーティーをしようと企画した。
しかし、菅内閣は一帯を立ち入り禁止にした。
また、その頃、
車で福島市内に行き、福島駅の近くの寿司屋に入った。
そして、地元の漁師のお役に立とうと気仙沼の魚を注文した。
しかし、店は気仙沼の魚は放射能の汚染で入らないという。
気仙沼は放射能汚染されてないよと言った後で、
では、何処の魚かと聞くと、瀬戸内海の魚だと答えた。

被災地の人々の今に続く禍には、
地震と津波と放射能に加えて、
風評被害に従った菅内閣の誤りも関与している。
そして、これらの誤りは、
風評被害という言葉に思考停止した上での
過剰反応によってもたらされているのではなかろうか。

福島第一原発の冷却水は、たまり続けて、今は膨大な量になっている。
これらの膨大は冷却水をどうするのか。
安全ならば、海に流したらよい。
これは、事故のない世界の普通の原発においてもそうしている。
とはいえ、安全だとしても、
海に流すのは反対だという漁師さんが多いという。
その反対の理由は、「風評被害が怖い」だ。
しかし、風評など、
人の口に戸は立てられないのだから、その風評に左右され続けておれば、
何時まで経っても立ち直れないではないか。
韓国などは、
未だに放射能を理由に福島の物産を受け入れず、
東京オリンピックにも難癖をつける。

従って、今我々に必要なことは、
風評被害という言葉に思考を停止するのではなく、
復興の為に妥当なこと、安全なことは、
断固として実施する姿勢
ではないだろうか。
第一原発の冷却水が安全なら、世界の普通の原発がしているように、
海に流したらよかろう!

そして、我が国のマスコミも国民も、
得体の知れない風評被害という言葉を多用せず、
安全なのだから、安心して、全国の国民が、
実に美味しい福島や宮城の北の海の魚をもっと食べようと心がけるべきだ。
これが、本当の助け合いであり、
天皇と国民が一つの家族のような我が国の真の姿だと思う。

 

令和2年3月11日(水)

西村眞悟の時事通信より。