日本は、『一神教の世紀』を克服して『多神教の世紀』を創造する。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

 

 吉田松陰の斬首された10月27日、萩の松陰神社に参り、松下村塾を観て生地を訪れ墓参をした。小さな家に育ち、成人後は旅の中で学び、ほとんど獄中にいたが、獄の中でも外でも、変わらず、人々に至誠を伝え続け、二十九歳で伝馬町の牢で斬首された人が貫いた憂国の至誠の無限の力を感じた。松陰が斬首の前日に書き上げた二冊の「留魂録」。松下村塾の栄達した門下に渡したものは、行方不明で、囚人の沼崎吉五郎に託したものは、彼が17年の獄中生活の中で隠し通して今に伝わり、松陰神社至誠館にある。下関生まれの作家古川薫氏曰く、「生き残り政府の高官にのし上がっていく長州人の弱者に対する惻隠の情の薄さを嘆くばかりだ」と。松陰神社の左に松門神社が建てられていて、流罪先の三宅島から「留魂録」を持ち帰って長州人の神奈川県知事に渡し、飄然として消息を絶った沼崎吉五郎が祀られていた。不肖、松陰が、一番参ってやってくれ、と願っているのが同じ牢獄にいた沼崎吉五郎だと感じ、沼崎さんの霊に深くお参りした。

 

 沼崎吉五郎は、安政六年十月二十六日(1859年)、斬首される前日の吉田松陰ら小伝馬の獄中で「留魂録」を託され、後、三宅島に流され、明治七年突然許され東京に戻った。そして、松陰に頼まれたとうり、留魂録を渡す長州人を探し、明治九年、松陰門下の神奈川県知事(権令)野村靖を訪れ、私は長藩の烈士吉田先生の同獄囚沼崎吉五郎という者です、と名乗り、留魂録を差し出して飄然と立ち去った。野村は、彼のことを「老鄙夫」と表現している。松陰が門下生に託した留魂録は行方不明で、老鄙夫に託したものは、今も松陰神社に現存する。これ、まさに、吉田松陰先生らしい逸話。松陰先生は、吉五郎さんに一番感謝して、このようにな隠れた誠実素朴な獄囚の老鄙夫がいる日本を一番の誇りに思っておられるはずだ!

 

 この度、吉田松陰先生が斬首された十月二十七日の前日である二十六日に
小野市の「日本神話の会」の萩への研修旅行に同行して、
萩の藩校「明倫館」で明治維新を語れとの要請を受け、
また、同時に、「伝統と革新」誌から
「アジアの危機に対する日本の方策」について書くように依頼された。
そこで、非才ながら、「日本の方策」とは、
我が国主導による「文明の創造」であると思いなして、
一神教誕生から二千年の人類史を見つめて一文を草した。
次に、その拙文を記して、諸兄姉のご批判を仰ぎたい。


 近い将来、我が国が遭遇する東アジアの動乱と
その動乱を克服して我が文明が果たすべき使命について記そうと思うが、
その為には、まず、
百六十六年前の嘉永六年(一八五三年)における黒船来航から始めねばならない。
何故なら、その時から顕在化した欧米列強に対する我が国の文明的課題は、断絶することなく現在に至っているからだ。
戦後の日本人は、大東亜戦争後、
アメリカによって「大東亜戦争の大義」を奪われたうえで
「大日本帝国憲法」を否定した「日本国憲法」を与えられて、
戦前と戦後は別個の国になり歴史は断絶したと洗脳され、そのように思い込んでいるが、
そう思っているのは戦後の日本人だけだ。
世界文明史のなかで、我が国の戦前と戦後は連続している。
そして、我々は、この連続性を自覚することによって、
明治維新と同様に、来たるべき国難を克服することが出来る。
何故なら、連続性を自覚すれば、
我々は、古(いにしえ)に回帰することができるからだ。

 百六十六年前の黒船来航によって欧米列強から突きつけられた課題は、
現在にも生きつづけており、これからいよいよ第三ラウンドに入ることになる。
明治維新が第一ラウンドで、
我が国は欧米列強に対抗できる独立自尊体制の確立に向かった。
そして大東亜戦争が第二ラウンドで、
我が国はアジアの国として「自存自衛の為」に、
欧米の三百年に及ぶアジア支配体制の打倒と人種差別撤廃を掲げて戦い、
その目的を達したのだ。
そのうえで、これから迎える第三ラウンドは、
神話の時代から現在に至る数万年に及ぶ
「日本という多神教世界(文明)」の主導による
西洋的一神教世界との融合、即ち「文明の創造」となる。
ここにおいて、
数百年にわたる欧米優位の妄想もしくは狂気即ち彼らのマニフェスト・デスティニー、
つまり、「キリスト教の世紀」は終わる。
同時に、共産主義という一神教と中華思想のグロテスクな混合物である
中国共産党独裁体制の終焉も必至である。

そして、東アジアは、海洋の日本から
多神教世界のおおらかさを核とする新たな文明の創造期にはいる。
 
 もっとも、黒船来航の約三百年前に、
ポルトガル人やスペイン人が我が国に来航して我が国は初めて西洋と出会っているが、
これは西洋の文物の「伝来」であって「衝突」までは至らなかった。
彼らと我が国の国力の格差は僅少で、軍事力では我が国が勝っていたからだ。
とはいえ、
我が国の秀吉また家康という卓越した為政者は、
彼らのキリスト教的独善が我が国の天皇を戴く伝統的国柄に相容れないものと見抜き
彼ら西洋との交流を遮断し鎖国した。

そして、我が国は、世界的にまれな「日本独自の太平の世」を経験した。
しかし、三百年後、再び現れた西洋は、圧倒的な武力を蓄え、
舷側からいつでも撃てる大砲を突き出した四隻の黒船に乗って、
「襲来」してきたのである。
 
 慶応三年(一八六八年)十二月九日の、「王政復古の大号令」は、
嘉永六年(一八五三年)の黒船来航から十五年間の事態を、
「未曾有之国難」と断定している。
そのうえで、「大号令」は、
その国難を克服して「国威挽回之基」を立てる為に
「諸事神武創業之始に原(もとづ)き」
徳川幕府の廃止と新政府の樹立を宣言し、
国民に対し、身分の区別無く各々勉励し、旧来の汚習を洗い、尽忠報国の誠を以て
奉公すべきことを促した。
さらに続く、戊辰戦争の最中の明治元年(一八六八年)三月十四日の
「五箇条のご誓文」は、新しい時代における国家の基本方針を宣言したものだ。
その「五箇条のご誓文」に付された勅語は次の通りである。

 

「我が国未曾有の変革を為さんとし、朕躬を以て衆に先んし、
天地神明に誓ひ、大に斯国是を定め、萬民保全の道を立んとす。
衆亦此旨趣に基き、協心努力せよ。」

 

そして、
「五箇条の御誓文」と同時に発せられた「国威宣布の宸翰」は、
これこそ国民に対する天皇の手紙(お言葉)であり、次の通り始まる。

 

「朕幼弱を以て、にわかに大統を紹(つ)き、
爾来何を以て萬国に対立し、列祖に事へ奉らむやと、朝夕恐懼に堪えさるなり。」

 

そして、
 

「今般朝政一新の時にあたり、
天下億兆、一人も其の處を得ざる時は、皆朕が罪なれば、
今日の事、朕、自ら身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、」

と続けられ、「天下を富岳の安きに置かんことを欲す。」と述べられている。
 
 この勅語と宸翰には、
黒船来航の一年前の嘉永五年に京都で誕生され、十六歳で新時代の開幕を迎えられた
明治天皇の、
まことに若さ溢れる率直かつ溌剌とした心情と強烈な願いが、直接、国民に対して表明されている。
その願いとは「萬民保全の道を立てる」ことだ。
その為に、
「天下億兆、一人も其の處を得ざる時は、皆朕の罪」とまで言われている。
これが、百五十一年前の明治維新だ。
そして、この明治維新の「萬民保全の道を立てる」という国家の基本方針は、
大東亜戦争敗戦後に初めて迎える正月における、
昭和天皇の「年頭、国運振興の詔書」によって、次の通り再び宣明されて現在に継続されている。

 

「茲に新年を迎ふ。顧みれば明治天皇明治の初国是として五箇条の御誓文を下し給へり。
曰く、
一、廣く会議を興し萬機公論に決すべし
一、上下心を一にして盛んに経綸を行ふべし
一、官武一途庶民に至る迄各々其の志を遂げ人心をして倦まさらしめんことを要す
一、旧来の陋習を破り天地の公道に基くへし
一、智識を世界に求め大に皇基を振起すへし
叡旨公明正大、又何をか加えん。朕は茲に誓ひを新にして国運を開かんと欲す。」

 
 以上、天皇の勅語と宸翰を以て明治維新を概観して明確なことは、
明治維新とは未曾有の国難を克服して「萬民保全の道」を立てることを目的に為されたということだ。即ち、明治維新とは我が国家の生き残りをかけた変革であり、その変革を促す底力は
「神武創業の始めに原く」つまり「復古」である。
我が国における改革とは、今までもこれからも、常に復古なのだ(西田幾多郎)。
それ故、昭和天皇は、
大東亜戦争の敗北と米国を中心とした戦勝国軍隊の我が国進駐という
文字通りの未曾有の国難に際して、
「復古」を基調とした明治天皇の「五箇条のご誓文」の誓ひを、
新たに自ら甦らせて国運を開かんと国民に宣言された。
時、明治維新から七十八年が経過した昭和二十一年の正月である。
さらに、
この敗戦から、七十五年を閲した現在、
我が国を取り巻く内外の情勢は、まことに厳しく、
明治維新以来三度目の、未曾有の国難が迫ると言うべきであろう。
そして、その国難は、我が国に「文明の創造」を促しており、
それを為すためには、
我々が真の日本人に帰ること、つまり「復古」が必要なのだ。

 東アジアの昔と変わらない地政学的情況を前提にすれば、
明治二十七、八年の日清戦役及び三十七、八年の日露戦役前夜的な覇権抗争が
現在の国難というべきであるが、
それだけではなく、
我が国が、日本としての同一性を維持してアジア諸民族の未来を拓き得るのか、
そうではなく、
おぞましい周辺国の覇権下に入れられ「文明の単位」として消滅するのか、
また、
歴史と伝統を維持する誇りある天皇を戴く日本人として生きつづけるのか、
それらを忘れて無国籍となって生きながら腐るのか、
という文化文明的な危機としての国難である。

従って、前の国難が、
軍事力による決着を前面に打ち出した分かり易いものであったのに比べると、
この度は、我が国が東アジアの「萬民保全の文明」を創造できるかという文明的観点が中心で軍事は従といえる。しかし、相手即ち中共は、剥き出しの軍事力によって覇権を拡大しようとしており、我が国には、それに対抗し得る軍事力が不可欠であることを、
ゆめゆめ忘却してはならない。
 
 そのうえで、この度の「文明の衝突」としての国難を見れば、
その特異さは、
国内において国難を醸成する「内なる要因」があることに気付かざるをえない。
それは、昭和二十年から七年間にわたって我が国を占領統治した
連合国総司令部(GHQ)が行った
WGIP(日本は戦争をした悪い国だという自虐意識を刷り込む洗脳)と、
そのWGIPの洗脳効果を未来永劫固定して持続するために
GHQが我が国を縛る為に押しつけた「日本国憲法」である。
従って、この度の国難は、我々に、
国家の生き残りをかけて、「内なる要因」を除去すること、
つまり「戦後体制からの脱却」
即ち「日本国憲法の廃棄」を要求している。

 そして、「外なる要因」は、
紀元三百九十二年、古代ローマ帝国がキリスト教を国教として以来、
世界を覆い尽くしてきた一神教的世界観と、
その一神教を裏返しにした変種のカルトとも言うべき共産主義の独善
中華意識のグロテスクな混合物である中国共産党独裁国家の覇権拡大運動
さらに、
ロシアの独裁者がもつ伝統的な東方拡大衝動としての軍備拡大だ。
この複合的な脅威に、
我が国はこれから、「萬民保全の道」を目指す
独自の「日本という文明」として直面しつつあるといえる。
そして、我が国が、
この「文明の衝突」に打ち勝てば、
具体的には、
中共から台湾を守り抜けば、
そして、アジアの「海洋の自由」を守り抜けば、
我が国が神武創業以来、「天皇のしらす国」として堅持してきて、
令和元年十月二十二日の即位礼正殿の儀において
新帝によって宣明された
「国民の幸せと世界の平和を常に願う」
つまり「萬民保全」の理念
人類史の中心的理念として掲げられることになる。
 
 欧米から見てユーラシア大陸の東の果て、
太平洋の西の果ての一番遠い「極東」の海洋に位置する我が国は、
百六十六年前に初めて現在の西洋列強と接触して以来、
「文明の衝突」に直面し続けて現在に至る国である。
従って、我が国が、嘉永六年に黒船が来航してから、
王政復古の大号令までの十五年間を
「未曾有之国難」と認識したことは極めて正確であった。
「国難」と認識した故に、
我が国は、国家存続のために明治維新を成し遂げることが出来た。
そして、我が国は、
明治二十八年の日清戦役、同三十八年の日露戦役を勝ち抜き、第一次世界大戦を戦い、
昭和に入って満州事変から日華事変を戦ったが、
大東亜戦争に敗北し、それから七十五年を経て現在に至る。
振り返れば、アジア・アフリカの諸民族は、
我が国より以前に、近世から始まった西洋列強の植民地拡大運動に直面し、国家としての存在を失った。そのなかで、我が国のみが、西洋列強の黒船が来航してからも、一貫して国家を維持して現在に至っている。
このことを確認して、これから最終ラウンドを迎える「文明の衝突」の、
人類史上における意義を考えたい。
その為には、二千年の一神教の歴史つまり西洋文明を概観する必要がある。
西洋の一神教が解れば、我が国の戦いの意義が解るからだ。
 
 まず、「欧米諸国の一神教」であるキリスト教出現は約二千年前だ
多神教の人類史においては、つい最近で、この一神教出現の出発点に遡れば、
大東亜戦争において日本軍兵士であった会田雄次(京都大学教授)が、
ビルマでイギリス軍の捕虜となって「アーロン収容所」に収容され、
そこで遭遇した白人の正体が「恐ろしい怪物」と感じた理由が分かり、
前任者のフーバー大統領から
「日本との戦争を欲した狂人」と言われたアメリカ大統領F・ルーズベルトが、
心に秘めていたマニフェスト・デスティニーという
「白人の異教徒と有色人種に対する狂気」が分かる。
これが分かれば、
近世五百年の白人のアジア・アフリカ支配と、それを打倒した大東亜戦争の意義が明らかになる。
そのうえで自覚すべきは、
これからの我が国に課せられた人類史的課題であり、まさにそれは、
白人によって地球を覆うことになった一神教支配から「諸民族の神々」を甦らせること、即ち復興、ルネッサンスであり、
中華の独善的支配からチベット、モンゴル、ウイグル等の諸民族を解放し
そして台湾また香港などの東アジアの諸国家と地域に自由を確保し
よって、アジアに「萬民保全の道」を打ち立てることだ。

 
 一神教は、中東で生まれた。
まずユダヤ教が生まれ、そこからキリスト教が生まれ、さらにイスラム教が生まれた。
これらの一神教の共通点は、
砂漠で生まれ、「唯一絶対の神」をもち、「神人隔絶」(神と人の隔絶)
非寛容、経典と戒律と聖職者をもつことだ。

これに対して多神教は「神人一体」だ。
天皇の祖である天照大御神と天皇は大嘗祭で一体となるし、
ギリシャの海神ポセイドンはミケーネ王アガムメノンの先祖である。

 
 ユダヤ教は、ユダヤ人の宗教であり強烈な選民思想をもつ。
イエス、・キリスト(四または六年~三十年?)は、ユダヤ人に対して、
ユダヤ教の「裁き罰する神」と「選民思想」を否定して「愛の神」と「博愛主義」を説いたが、ユダヤ人によって処刑された。
このイエス・キリストの教えは、ユダヤ教と同じくユダヤ人に対する伝道に限られていたが、ユダヤ人以外の異教徒に伝導してキリスト教がローマ帝国に入り込む道を切り開いたのが、当初、イエス・キリストを弾圧し、後に改宗したユダヤ人のパウロ(?~六五年)だ。
そのパウロのキリスト教は、
ユダヤ教のモーゼの律法と選民思想を復活させた教えである。従って、非寛容である。

そして、遂に西暦三九二年、
この「パウロのキリスト教」が、ローマ帝国の国教となった。
すると、その国教化とともに、
ローマ帝国におけるギリシャ・ローマ文明の膨大な図書館が閉鎖され、
ギリシャ・ローマ神話に関係のある歴史的建造物が破壊され、
三九三年、オリンピア競技会が全廃されて、
ここにギリシャ・ローマ文明が終焉した。
以後、数百年をかけて、この非寛容なパウロのキリスト教は、
ローマの支配領域、即ち、全ヨーロッパに広がり、
その領域内のゲルマンやケルト諸民族の多神教世界を地上から消滅させた。
このローマ帝国のテオドシウス皇帝による
「パウロのキリスト教の国教化」こそ、
二十世紀に至る人類の大惨害の始まりである。

パウロがイエスの説いたキリスト教の中に復活させた選民思想は
次の旧約聖書民数記31章17、18節に記されている。
「モーゼは彼らに言った・・・
この子供達のうちの男の子をみな殺し、また男と寝て、男を知った女をみな殺しなさい。ただし、まだ男と寝ず、男を知らない娘はすべてあなたがたのために生かしておきなさい。」

まさに、これは、異教徒、異民族の殺戮の教えであり、
婦女子を強姦することによる民族浄化の教えに他ならない。
二十世紀のナチスドイツのユダヤ人殺戮
旧ユーゴースラビアの内戦における民族浄化
そして、共産主義独裁体制における数千万人単位の粛正(殺戮)は、
この民数記に繋がる惨害である。まことに、恐ろしい教えだと言わざるを得ない。
以上、
関野通夫著「一神教が戦争を起こす理由」(ハート出版)に学んで記す。

 

 

 そして、十五世紀後半から、
このローマ帝国の版図(現ヨーロッパ)を覆ったキリスト教が、
内には教義に反すると烙印を押した「異端者」や「魔女」を火炙りにしながら、
スペインとポルトガルを先頭に南北アメリカ、アジア、アフリカに拡大を始めたのだ。
即ち、コロンブスのアメリカ大陸到達(一四九二年)、
バスコ・ダ・ガマのインド到達(一四九八年)、マゼランの世界一周(一五二二年)だ。
その拡大の仕方は、ローマ教皇の承認に基づいて地球を分割するとういものである。
彼らにとっては、万物を創造した神の代理人であるローマ教皇は、地球をも分割できるという訳だ。トリデシリャス条約(一四九四年)では、大西洋の上で東をポルトガル、西をスペインに分割し、さらにサラゴサ条約(一五二九年)で、ニューギニア中央で東西にアジアを分割した。
従って一五四三年、日本に最初に来航した白人は、二挺の鉄砲を持ったポルトガル人で、次に、「ローマ教皇の精鋭部隊」といわれたイエズス会の創設者の一人である
フランシスコ・ザビエルがキリスト教伝道のために来航する(一四四九年)。
これをヨーロッパでは大航海時代と呼ぶ。
しかし、非ヨーロッパ世界にとっては、大惨害の始まりだった。
ここで、教科書には記されていない彼らの目的を記せば、
彼らの本質が分かる。
それは、奴隷の「捕獲」である。
あのコロンブスのアメリカ到達の報告にも、
「ここの原住民は奴隷にする最適な資質がある」と記してあるのだ。
アフリカ大陸から、南北アメリカに送られた奴隷の数は次の通り。
十六世紀九十万人、十七世紀三百万人、十八世紀七百万人、十九世紀四百万人(平間洋一著「日露戦争が変えた世界史」)。
そして、十六世紀から十七世紀初頭までの間に、
我が日本から、インドや欧州に送られた奴隷は五十万人だ(奥山篤信著「キリスト教というカルト」)。日本の少女は聡明で従順なので奴隷として高値で売れた。
それ故、ポルトガルやスペインのキリスト教の宣教師は
奴隷商人と武器商人を連れて我が国に来航してきた。
時に我が国は戦国時代である。
我が国は、西洋よりも性能のいい鉄砲を製造できたが、
肝心の弾を発射する火薬がなかった。
そこで、宣教師や奴隷商人と武器商人は、
キリスト教に改宗させたキリシタン大名に
「火薬一樽」を渡し、
その対価として
領民の「処女五十人」を獲得して家畜のように裸にして奴隷船に積み込み、
インドや欧州に運び巨額の代金を得たのだ。

天正十年(一五八二年)、ローマに向かって平戸を出発した
天正遣欧少年使節の四人の少年達は、
遙か欧州の奴隷市場で、裸にされ家畜のように売られている日本の少女達を見ている。

これが白人のアジア・アフリカ支配であった。
彼らにとって異教徒、有色人種は、「人間」ではなく「家畜(動物)」だった。
従って、彼らは、アフリカやアジアから奴隷を獲得しながら、
何ら矛盾を感じること無く、
アメリカ独立宣言やフランス人権宣言で、
人間は自由で平等だという「基本的人権」を宣言することができた。
彼らは、十八世紀に、そうゆう宣言をしながら、
十九世紀に至ってもアフリカから四百万人の奴隷を南北アメリカに「輸送」していたのだ。彼らの人権宣言を我が国の義務教育で素晴らしいものと教えてはならない。
これは、彼らの「偽善宣言」ではないか。
アメリカ合衆国の第二の国歌といわれる「アメージング・グレイス」は、
「奴隷船」の船長だった男の歌である。

同じ十九世紀の明治五年(一八七二年)七月、
我が国の外務卿副島種臣と神奈川県権令大江卓は、
清国人奴隷二百三十名を船倉に閉じ込めてマカオからペルーに向かうマリア・ルス号が横浜港に入港した際、同船の出港を禁止して人道に基づき清国人奴隷を解放している。
これ、明治天皇が掲げられた「萬民保全の道」の実践である。
白豪主義(white Australia)を「国是」としたオーストラリアでは、
原住民のアボリジニは、
狐や兎と同様の楽しいレジャーとしての狩猟の対象としてのアニマルだった。
オーストラリアが、アボリジニを人口統計に入れたのは、
驚くべきことに一九七六年(昭和五十一年)の憲法改正以降である。
従って、彼らが、
大東亜戦争における日本兵捕虜を如何に扱ったか容易に想像がつくではないか。
 
 豊臣秀吉は、十六世紀後半、北九州でキリシタンバテレンのこの本質を見抜いた。
キリシタン大名の領地では、キリスト教宣教師によって神社仏閣が破壊され領民が奴隷商人によって奴隷としてインドや欧州に運ばれていた。
それを見た秀吉は、バテレン追放令を発した(一五八七年)。
これ、日本という國體と文明を守った慧眼というべきだ。
そして、十九世紀半ばまで、
極東の我が国のみが白人の支配圏外の国として残されていたのだった。
この最後に残された日本が、
明治維新から七十五年を経て大東亜戦争を敢行して数百年の白人のアジア支配を打倒し、白人による人種差別撤廃への道を拓いた。
従って、この二十世紀半ばの大東亜戦争がなければ、
二十一世紀に、アメリカに黒人大統領は誕生せず、
イギリス王室に黒人の血をもつ嫁は来なかったであろう。
関東軍作戦参謀だった草地貞吾陸軍大佐が、
臨終直前の辞世において、
「大東亜大御戦(おほみいくさ)は万世の歴史を照らす鑑(かがみ)なりけり」
と大観されたことに深く敬意を表したい。
 
 そこで、以上の人類史の大きな流れを前提にして、
その流れを創った我が国が、
現在迫りつつある東アジアの危機に如何に対処すべきかを記す。
その為に、
「偉大な結果をもたらす思想とは、常に単純なものだ」
というトルストイの言葉を想起して、
明治天皇が王政復古の大号令にある「神武創業の始めに原(もとづ)き」、
何を掲げられたのかを見つめることが肝心だ。
それは、既に述べた「萬民保全の道」を立てることだ。
実に、単純にして明快である。
我らは、明治天皇の御志を受け継ぎ、
東アジアにおける諸民族の「萬民保全の道」を立てねばならない。
それは具体的に何かといえば、
北朝鮮に拉致された同胞の救出であり、
中国共産党独裁体制の打倒である。
即ち、我々は、自分の目で、
同胞の解放と
中国共産党独裁体制の崩壊と
中華から自由な台湾と香港、
そして、チベットとウイグルと内モンゴルと満州の人々が
解放されるのを見なければならない。

これが、東アジアから新時代を開く前提だ。
その為に、
今や価値観と敵を共有するアメリカやイギリスと協調協働して、
まず、只今、
香港の自由を求める人々を支援し、
来年初頭において、
台湾に中共の傀儡政権が生まれることを阻止する必要がある。


その要石(キーストーン)が、
まさに尖閣なのだ。


我が国が、今までのように中共に気兼ねして尖閣の断固とした防衛を躊躇(ためら)うことは、
人道に反する利敵行為そのものであり、
却って中共を助け無用の乱を招く。
我が国は、只今現在、
我が国の独立自尊と東アジアの平和の為に、
断固として自衛隊を出動させて尖閣を守らねばならない。

かつて第二次世界大戦の切っ掛けとなった
ミュンヘンにおけるチェコのズデーデン地方のドイツへの割譲を認める
「独裁者ヒトラーへの宥和」を以て、
イギリスのチャーチルが「平和主義者が戦争を創った」と言ったが、
現在の我が国による尖閣を併呑しようとしている「中共への宥和」は、
中共主導の動乱を招く。
即ち、
「日本国憲法の平和主義が戦争を創る」のである。
尖閣を中共が奪えば、
彼は、必ずそこをミサイル基地化するとともに海空軍基地を造成し、
台湾と沖縄本島と我が国のシーレーンは、
中共の掌中に入る。
これが、我が国の存立基盤の破綻とアジアの悲劇の開始でなくて何であろうか。
この事態を回避する為に、
安倍晋三内閣総理大臣に要請することは、
我が国を「戦後体制」に閉じ込めて、
中共を喜ばせて戦争を招き寄せる「日本国憲法」から脱却せよということだ。

 

 

令和1年10月29日(火)

西村眞悟の時事通信より。