さらに、硫黄島の日本軍について書いておきたい。
それは、
小田実の最初の著書
「何でも見てやろう」
の初版に書かれていたエピソードだ。
なお、小田実は、
昭和七年生まれの作家であり七十五歳で亡くなったが、
「ベトナムに平和を市民連合」(ベ平連)を創設した
市民運動家でもあった。
以下に書くエピソードは、
僕が読んだ「なんでも見てやろう」の初版には書かれていたが、僕の記憶に間違いがなければ、
その後の版には削除され書かれていない。
小田実は、
二十歳代半ばに、フルブライト基金でアメリカに留学し、
それからヨーロッパを放浪するように回って帰国し、
その旅の見聞を「なんでも見てやろう」という書名で出版し、
それがベストセラーになった。
僕は十代後半にそれを読んだ。
彼は、作家志望の青年だったので、
アメリカに長期滞在してからフランスのパリに行ったときに、
アメリカ英語が恋しくなり、
パリにアメリカ人作家がいると聞いたので、
彼に会いたいと電話した。
そして、次の日の朝、
教えられた彼のマンションに行った。
しかし、
小田を招き入れてくれたアメリカ人作家は、
朝からぐでんぐでんに酔っぱらっていた。
そして、
酔っぱらっている理由を小田に次のように話した。
俺は、アメリカの海兵隊員として硫黄島で日本軍と戦ったんだ。
その戦いで俺たちは、
陣地をつくり機関銃で日本兵を撃ちまくっていた。
すると、
一人の日本軍将校が、刀を抜いて俺たちの陣地に突入してきた。
陣地に飛び込んできたその日本軍将校は、
俺に目もくれず、真っ先に機関銃に日本刀を振り下ろした。
すると、機関銃が二つに斬れた。
機関銃を切断した彼は、
満足そうに上体を起こして俺を見た。
俺は、殺されると思って恐怖に震えた。
しかし、
彼は俺を斬らなかった。
俺は恐怖の中で彼に向かって拳銃を撃った。
そして、彼は、斃れた。
それ以来、
日本人に会うのは君が初めてなんだ。
だから、
飲まずにいられなくなって飲んでいるんだ。
以上が、
小田実がパリで会ったアメリカ人の印象深い告白だった。
なお、日本刀で機関銃が斬れるのか、
と疑問を持つ方もおられるかと思うので言いたい。
斬れる、と。
銃を連射した経験のある方なら、
すぐに砲身が極めて熱くなるのをご存じだろう。
硫黄島の彼らは日本兵に向かって機関銃を撃ちまくっていた。
従って、砲身が熱で真っ赤になっていたはずだ。
この時、
達人ならそれを真っ二つにできる。
また、
機関銃を真っ二つに斬った日本軍将校は、
人、アメリカ兵、を憎んだのではなく、
機関銃を敵として攻撃したことが印象的だ。
如何にも日本人、日本の武人,らしいではないか。
このような極限の中で現れる日本人らしさを
忘れないでおきたい。
軍神と、名を知られた人だけが、軍神ではない。
明治天皇御製
敷島の大和心のををしさはことある時そあらわれにける
令和元年九月十一日(水)
西村眞悟FBより。