先の時事通信で、
一九七七年(昭和五十二年)九月と十一月の、
北朝鮮による
能登半島からの三鷹市ガードマンの久米裕さんと
新潟からの十三歳の横田めぐみさんの拉致に関し、
まさにその時、我が国政府(福田赳夫内閣)は、
その二人の失踪が、北朝鮮の拉致によるものであることを察知していたと書いた。
つまり、能登半島と新潟の現場の警察が、まず北朝鮮による拉致だと察知し、
その情報が東京に届き、東京の政府が察知したのである。
しかし、
この北朝鮮という国家による我が国家主権の侵害という
「戦争」に対して、
時の我が政府は、国民を救う為の適切な対抗措置を断行することができないが故に、
もしくは、その対抗措置という発想自体がないが故に、
国民が知らないのを奇貨として「不問」に付して葬ってきた。
国民が知らないのを奇貨として
韓国が竹島を占拠したことを見て見ぬふりをしたのと同じである。
そして、現場で察知した警察官をはじめとした人たちも、
「おかしい」と思いながらも黙して年月が過ぎていった。
ただ、日本海側に面した府県の沿岸沿いの住民の間では、
この海岸から人が忽然と連れ去られるという「人さらい」の口伝が広がっていた。
こういう、
国民を救わず、国土を守らない、
戦後体制即ち日本国憲法体制による冷酷な政治の不作為のなかで、
封印され、社会に知られることなはなかったが、
次に、記すように、
国民の命を救うための行動が為されていたことを知っておかねばならない。
この事例は陸上自衛隊によるものであるが、
もちろん、知られてはいないが警察官による多くの事例があることも確かである。
平成十四年九月、
訪朝した小泉総理に対し、北朝鮮の金正日が日本人を拉致したことを認めた。
そして、これを、我が国報道機関が衝撃的な事実として我が国に伝えた。
これを報ずるTVを息子とともに見ていた
帝国陸軍士官学校五十八期の元自衛官(故人)が、
「とっくの昔に、北朝鮮が日本人を拉致していることは分かっていた」
と言い、
北朝鮮の日本国民拉致を察知してから、
その北朝鮮から国民を救うために、
何をしたかを、
次の通り息子に語り、
その息子(友人)から私が聴いた。
昭和三十年代から四十年代初頭、
夜間、訓練名下に、密かに部隊を日本海沿岸地帯に出動させ、
それを指揮して、北朝鮮の工作船が沿岸に接近するのを待ち伏せて、
至近距離に来た工作船に発砲を命じた(但し、空砲)。
工作船は慌てふためいて闇の日本海に逃げ去った。
この訓練名下の部隊行動を何度敢行したのかは黙して不明ながら、
この方は、四十五歳の時、大佐(一佐)で自衛隊を退官した。
その時、自衛隊から、
この行動を公表しない旨の宣誓書に署名を求められ、署名して退官したという。
東日本大震災と巨大津波の際、
多くの人々が、
津波に向かって走ってゆく警察官の姿を見ている。
また福島第一原発の破壊された原子炉の上で停止して
約40トンの水を灼熱の原子炉に落としたCH47チヌークの姿を世界が見た。
これを見た中共の将官が、
日本人は戦前から今も、全く変わっていない、簡単に命をかけてくる、
と驚嘆し、
アメリカ軍の将官が、
人の命をなんとも思わない作戦をするべきではない、
と自衛隊の指揮官に語り、
しかし、自衛隊が、それを敢行したのを見て、
アメリカ軍は、目の色を変えて本気モードで救援活動に入った。
この東日本大震災の警察官と自衛隊の決死の姿が、
危機における日本人の本質を世界に示し、
中共や北朝鮮に対して、
無言の強力な抑止力となったように、
この黙して語らなかった帝国陸軍中尉にして自衛隊の指揮官の行動は、
北朝鮮に対する強烈な抑止効果となって、
それがなければ、拉致されたであろう、
多くの日本国民を救っている。
拉致に関して、我が国政府の冷酷で許しがたい不作為は、
いまや明らかであるが、
その政府の不作為の重圧下で、
国民を救う努力を続けた無名の警察官や自衛官がいたことを忘れてはならない。
平成29年11月25日(土)
西村眞悟の時事通信より。
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本日11月25日は、「憂国忌」(世に言う三島事件の日)であり、三島由紀夫氏、森田必勝氏の御命日であります。
47年前の今日、三島由紀夫氏は自身の主催する「楯の会」メンバー4人と共に東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部において、総監を人質にとり本館前に自衛官約1000人を集合させ自衛官らに対し蹶起を呼び掛ける演説を行いました。
その後、総監室で楯の会・学生長であった森田必勝氏と共に自刃を遂げられました。
ここに三島由紀夫・森田必勝両氏を偲び謹んで哀悼の意を表します。
また本年においても、この「憂国忌」に際し以下に楯の会”檄文”をご紹介致します。
「檄文」 楯の会 会長三島由紀夫・学生長森田必勝
われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流した我々の汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずにして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。 政治は矛盾の粘塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを見た。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名前を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。
もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質な欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることはなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理
念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を正すといふ使命のため、われわれは小数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰といふべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終わつた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変わらない」と痛恨した。 その日に何が起こつたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不要になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自身を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる!政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。
銘記せよ!
実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつて悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議會主義政黨を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、その日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。
これ以上のパラドックスがあらうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、なんたる論理的矛盾であらう。男であれば男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。
しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本から来ないのだ。シヴィリアン・コントロールは民主的軍隊の本姿である、といふ。
しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。この上、政治家のうれしがらせにのり、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か?
アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう。
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。
しかしあと三十分、最後の三十分待たう。
共に起つて義のために共に死ぬのだ。
日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。
もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
辰巳 史浩様のブログ、「日本の夜明け」(政治・歴史評論)より。