三月二十九日の夕刻、憲政記念館で、日本会議が主催して憲法改正の集会が開かれた。
社民・共産以外の各党から論者が演壇に出て各党の憲法改正に関する所信を表明した。
その所信を一応聴いたので、
やはり本通信でいわゆる「憲法改正」について指摘しておきたい。
(1)九条を容認する改正論は似而非(えせ)であり有害である
まず、集会から二日が経過した本日三十一日、
不思議なことに、各党が何を言ったのかさっぱり思い出せない。
そこで、言っておく。
この集会の主旨が、
昭和二十二年五月三日に施行された「日本国憲法」の改正のことならば、
それは、
我が国の国体を狂わしている一条の改正!
次に、
九条の削除!
もしくは、
削除に近い改正!
以外、あり得ない。
この一条と九条に触れずして他の箇所の改正を論じ、
また訳のわからん加憲の如きは、
全て「毒の樹」の枝葉を広げる所為であり、
我が国家と国民にとって無用どころが有害である。
そこで、「毒の樹」とは何か。
それは、それは昭和二十一年二月中のわずか九日間に、
我が国を軍事占領していた連合軍総司令部(GHQ)民政局の二十五人のメンバーが英文で書いた
「日本国憲法」、とりわけ、
そのメンバーのチーフであったチャールズ・ケーディス大佐が、
自ら「日本を永遠に武装解除するために書いた」と明確に言った
「九条」である。
「改正」とは改めて正すことであろうが。
従って、
この「毒」を改めることなく温存して他の箇所の「改正」を論ずることは、
「毒」を公認してさらに繁殖させることで、
正すことではなく悪であり有害この上ない。
また、「加憲」の如きは、「毒」のまわりに何かを加えることで論外である。
しかるに、二十九日の集会で、
どの政党も「一条」にも「九条」にも触れなかった。
それ故、彼らが何を言ったのか思い出せないのだ。
というより、覚えているほどヒマではない。
一杯飲んだら忘れてよい。
論者も挨拶がすんで二日たてば何を言ったか忘れる代物である。
と、言うわけで、
そもそも、この集会が、憲法改正論の盛り上がりを示すものなのであろうか。
平成五年、
自民党が野党に転落して新内閣の防衛庁長官に中西啓介さんが就任した。
そして、新長官の中西啓介さんが、
憲法改正つまり九条の改正の必要性に触れた。
すると、「野党になった自民党」が
野党になった瞬間に「社会党」になっていて、
憲法改正に触れた新長官の罷免を新内閣に要求して、中西長官を辞任に追い込んだ。
この度の集会は、この自民党勢力が中心になって行われたのであるから、
憲法改正論の盛り上がりを示すものと主催者は評価したいのは分かる。
しかし、演壇の者は、
「日本を永年に武装解除するために書かれた条項」にフタをしている。
これ、コップの中の水が
コップの中だけで騒いでも盛り上がったことにはならないのと同じだ。
振りかえれば、
我が国の連合軍による占領が解除(独立)された昭和二十七年から始まった
自主憲法制定論は、明らかに憲法九条改正をターゲットにしていた。
従って、この六十年前の改正論の方が、
今の改正論より内実において盛り上がっていたのではないか。
(2)立憲主義とは何か
立憲主義とは、憲法に基づく国政の運用のことである。
では、その「憲法」とは何か。
「真正の憲法」のことであろう。
「真正でない憲法」に基づくことは立憲主義ではない。
では、「日本国憲法」は真正なのか?!
外国人であるGHQ民政局の二十五人が慌ただしく九日間で書いた憲法が
我が国の憲法として真正であるのか?
あるはずがないではないか!
よって、集会で言われていた立憲主義とは、似而非、まやかし、である。
そもそも、「日本を取り戻す」とは、
我が国の
「真正の憲法」
を取り戻すことであろうが。
真正な憲法を取り戻すことなく、どうして日本を取り戻せるのか。
岸信介氏が、
自主憲法制定、
という言葉を使った真意と時代の苦痛を忘れてはならない。
外国に支配されている時に、
その支配者が書いた「憲法」を未だに押し戴いていることは、
その支配を継続して七十年後の今も受け入れていることであり屈辱ではないか。
真の立憲主義に目覚めて、この屈辱を晴らそうではないか。
(3)平和憲法とは何か
現憲法は、平和憲法だ、平和主義に基づいているという論者がいた。
では、平和と戦争の関係を論者は如何に捉えているのか。
トルストイにロシアの対ナポレオン戦争を描いた「戦争と平和」という大小説がある。
その題名のように「戦争と平和」は不可分なのだ。
戦争に備えることによって平和を維持できる。
平和に慣れたときに戦争が勃発する。
従って、現憲法が「平和憲法」だというならば、
我々は、
「戦争憲法」
を造らねばならない。
「平和憲法」と「戦争憲法」が一対として存在して、
初めて国家と国民の安泰が確保できるからだ。
皇居の側に「消防庁」がある。
その玄関に、英文で「Department Of Fire」と書かれている。
その通り。火事のない平穏な社会を維持するためには、
Department Of Fireが機能しなければならない。
同様に平和な国の平穏な国民生活を確保し維持するためには、
Peace Constitution
とともに
War Constitution
と
Department Of War
が必要なのだ。
我々は、今こそ、
戦争憲法と軍隊を創設しなければならない。
(4)国家存立のための戦略としての日本国憲法無効論の死活的重要性
憲法九条削除に触れることなき改正論者のように、
目をつぶれば世界がなくなる訳ではない。
我が国を取り巻く内外の情勢はまことに厳しい。
北からロシア、北朝鮮および朝鮮半島情勢そして覇権主義中共の台頭!
我が国の領土である国後択捉に最新鋭ミサイル基地を増設するロシア、
核実験と弾道ミサイル発射を繰り返す北朝鮮、
尖閣諸島と沖縄本島を狙う中共。
この情勢のなかで、
従来通り、アメリカに依存する日本に未来(出口)はない。
アメリカが「日本を永久に武装解除されたままにしておくために書いた憲法」
によって我が国を守ることはできない。
しかし、この国際情勢の中にあるにもかかわらず、
改正論に九条削除がない現在の国内状況は、
一体全体、何を意味するのか。
それは、厳しい国際情勢に適応できる憲法改正を待つことなできない、
改正は間に合わない、ということである。
どうでもいい改正論者ばかりがタケノコのように表に出てきて、
妥当な改正実現に何年かかるのか?
では、
憲法改正は間に合わないから、
中共に沖縄を渡しましょう、ロシアには国後択捉をさし上げましょう、
日本を北と南に二分して中露の属国になりましょう、
これでいいのか!
こんなこと断じて容認できない、
死んでもこれを阻止する、
と覚悟を決めるならば、
どうするのか。
その時こそ、
立憲主義の本義に立ち返り、
内閣総理大臣が、
昭和二十二年五月に施行された日本国憲法は
無効であることを確認して、
我が国の真正の憲法である我が国の歴史と伝統と不可分の大日本帝国憲法に基づいて
国家防衛に向かうことを宣言し、
その宣言を敢然と行動に移すことによって
国家の安泰と国民の安全を確保することとなる。
従って、
これから突発的に何が起こるか分からない国際的激動期に突入する我が国の総理大臣は、
蛮勇を内に秘めて、時に臨んで、
「狂」を発する者でなければならない。
高杉晋作の「晋」を名にもらっている総理大臣、
覚悟を固められたし。
平成29年3月31日(金)
西村眞悟の時事通信より。