奉祝 陸軍記念日 ”東京大空襲” | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 


 

 

百十二年前の明治三十八年三月十日、

黄塵の渦巻く満州、奉天城の南において、
奧第二軍の将校斥候、木田寿弥太中尉は、
奉天城内から清国人の群れが軍服や寝具などの
ロシア軍の軍事物資を持ち出しているのを認め、
それを奉天城からのロシア軍退却の証拠と判断し、
意を決して奉天城内に侵入して城内中央まで巡回して帰途に就き、
午後三時、奧第二軍司令部に帰着して「奉天城に敵影なし」と報告した。
午後五時、
奧第二軍第四師団の大阪歩兵第三十七連隊第二大隊は、
奉天城に突入し城内に日の丸を掲げ、
第二大隊長河村義男少佐は、
奉天将軍増祺に奉天城占領を申し渡した。
之を受けて、
満州軍総司令官大山巌元帥は、
奉天会戦の勝利とその終結を宣言した。
ここに我が国は、
将兵の戦死一万六千五百五十三名、戦傷五万三千四百七十五名の奮闘によって、
国家の存亡をかけた決戦に勝利した。
翌年の明治三十九年三月十日、
我が国は、この日を、
「陸軍記念日」として祝った。

ロシア軍の総帥であるクロパトキン大将が、
奉天城から北に逃げた大きな要因は、
ロシア軍右翼に、
あの世界一堅固な要塞である旅順を陥落させた悪霊、
乃木希典第三軍が進出して、
想像を絶する出血をものともせず、
ロシア軍包囲の為の迂回動作を仕掛けてきたのを
悪魔に魅入られたかの如く恐れたからである。

戦後、三月十日は「陸軍記念日」ではなくなったが、
歴史を奪われた記憶喪失のまま過ごしてはならない。
国家の運命をかけたこの日を記憶しよう。
しかし、
「陸軍記念日」は奪われても、
奉天城に最初に突入した
大阪歩兵第三十七連隊(信太山駐屯)の連隊ナンバーは、
戦後も奪われることなく現在も信太山に駐屯する
陸上自衛隊歩兵(普通科)第三十七連隊に引き継がれている。
このことに関しては、
陸軍士官学校卒業後(37期)、
その歩兵第三十七連隊付きとなり、
後に第二十五軍(山下奉文司令官)参謀として
マレー作戦でシンガポールを陥落せしめ、
戦後陸上幕僚長となった杉田一次閣下の功績大である。

なお、私の祖父は、二十三歳の時に、
日露戦争の大山巌元帥をはじめとする将軍・提督らの凱旋を観ている。
その凱旋将軍のなかで
最も深い忘れ得ぬ印象を受けたのは
乃木希典将軍であった。
それで、明治四十二年に生まれた娘(私の母)に、
その乃木閣下の様子を度々印象深く伝えている。
それ故、母は私に、
凱旋する乃木閣下の様子を自分が観ていたかのように伝えてくれた。

第三軍に凱旋の命令が下って
乃木希典が帰国の途に就いたのは明治三十八年の暮れであった。
明治三十九年一月十四日、
第三軍の幕僚とともに新橋駅に着いた乃木希典閣下は、
元帥の大山巌満州軍総司令官や東郷平八郎連合艦隊司令長官を上回る最大の人々の歓迎を受けた。
その時の、
乃木希典閣下の様子は、
凱旋将軍のようではなく、
下を向いて申し訳がないように悲しげであったという。

次に、陸軍記念日にあたり、
明治の苦闘を象徴する乃木希典の凱旋に赴く心境を示す詩と、
ともに嗚咽しながら朗読した
旅順の水帥営北方高地における戦死した将兵への祭文、
天皇陛下への戦死した将兵の様子を示す報告文を記しておきたい。

   皇師百万強虜を征す
   野戦攻城屍山を作す
   愧ず我何の顔あって父老にまみえん
   凱歌今日幾人か還る

   第三軍殉難将卒諸子の英霊に捧ぐる祭文
・・・嗚呼、諸子と此の栄光をわかつたんとして幽明相隔つ、
哀しい哉、
乃ち我が軍の旅順口に入るや、
諸子が忠血を以て染めたる山川と要塞とを下瞰する処を相し、
地を清め壇を設けて、諸子が英魂を招く。
願わくば魂や髣髴として来たり饗けよ

    第三軍司令官報告
  而して作戦十六ヶ月間、
  我が将卒の常に勁敵と健闘し、
  忠勇義烈、死を視ること帰するが如く、
  弾に斃れ剣に殪るる者皆
  陛下の万歳を歓呼して欣然として瞑目したるは、
  臣之を伏奏せざらんと欲するも能わず。
  然るに斯くの如き忠勇の将卒を以てして
  旅順の攻城には半歳の長月日を要し、多大の犠牲を供し、
  奉天附近の会戦には、
  攻撃力の欠乏により退路遮断の任務を全うするに至らず、
  また騎兵大集団の我が左側背に行動するに当たり
  之を撃砕するの好機を獲ざりしかば
  臣終生の遺憾にして
  恐懼おく能はざる所なり。

 

平成29年3月10日(金)

西村眞悟の時事通信より。